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英雄たちの選択「武田信玄から真田丸へ~城の密集地帯 川中島の秘密~」 [戦国時代]

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今回は山城や信玄と謙信の戦略についての話でした。
選択は拠点を築くか謙信と和睦するか、という選択でしたが、和睦を選択した人たちは川中島以前に信長が桶狭間の戦いで義元を破ったのは信玄にとって絶好のチャンスだったと説き、ここで和睦して南進すれば天下も取れたのではないかという意見でした。


一方、拠点を築くという意見では(磯田さんもこの立場でしたが)、謙信が和睦に応じてくれるかどうかわからないし、将来今川や織田を攻めるとしてもまずは北の穀倉地帯を抑えてからのほうが有利なのではないかという意見でした。


結局信玄は海津城を築くわけですが、ここで使われた「丸馬出し」は当時最新の技術で、後に真田信繁が建設した真田丸もこの丸馬出しを改良したものだと千田さんは言っていました。


信玄と謙信の人物については、信玄は徹底したリアリストであるのに対し、謙信は戦争アーティストのようなところのある人で、妻女山に陣取ったのも信玄を誘い出して平地での正面決戦をやってみたかったのではないか?というのが磯田さんの見方でした。これは甲陽軍艦の記述を正しいとしたものですが、小和田哲男さんの意見は啄木鳥戦法などが実際に会ったわけではなく、霧の中での遭遇戦だったのではないかという見方でしたが。


4000人近い戦死者は戦国最大とも言われており、最大の技術を尽くして戦った戦いがごく狭い地域に限られるというところが面白いところだという話でしたが、個人的には謙信と争わずに南進していたらどうなったかは気になるところです。最もこれは後知恵になってしまうのですが。


池田光政が家臣を怒るところで甲州武士を例に出すことや、謙信側の記録では謙信の家臣が信玄に切りつけたことになっているなど、初めて知る内容も多い回でした。それにしても国境地帯に住む住民とは大変ですね。いつ戦争に巻き込まれるかわからず、両方の大名から年貢を取られるというのだから過酷です。戦国時代の殆どの戦争が国境をめぐる争いだったので、生きた心地もしなかったかもしれません。


中島さんは信玄が川中島の戦いに関わっていたのは33歳から40代前半くらいで前頭葉が最も活発化する時期に局地戦に終始していたのはもったいないといったことを話していましたが、そもそもこの時期の信玄に天下に打って出るという考えはあったのでしょうか?信長にも全国統一する意思があったかどうかはわからないとすら言われる昨今なので、このあたりも再考する必要があるのかもしれません。


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