So-net無料ブログ作成
検索選択

真田昌幸は春日信達を調略したのか? [真田丸]

スポンサードリンク




真田丸第8回「調略」は実にえげつない昌幸の調略が炸裂する回でした。
昌幸は弟の信尹を通じて上杉景勝に身を寄せ、海津城の守りを任されている春日信達に誘いの手を伸ばし、武田の旧臣としての誇りを思い出させて景勝から離反するように説きます。最終的に説得に応じた信達は北条に味方することになり、昌幸はこれを手土産に北条に下るのですが、信尹により信達は殺害され、信達が味方についたことにより有利となるはずだった北条側の計画が水の泡となり、結局北条は兵を引いてしまう……というストーリーになっていました。


これだと、周囲の大名が全て昌幸の思い通りに振り回されているように見えます。権力の真空地帯となった旧武田領で国衆の国を作ると昌幸は言っていましたが、実際、春日信達の調略に昌幸は関わっていたのでしょうか?丸島和洋さんの『真田四代と信繁』を見てみます。



この本の中では、真田昌幸が北条氏直に参陣した7月13日に春日信達の謀反が露見して殺されており、真田氏と小県の国衆が信達の寝返りを手土産として北条氏についたのかもしれないとあります。そして信達が貼り付けにされた直後に信尹は上杉を離れており、北条氏に味方した国衆の中では昌幸が先陣を命じられていることなどから、昌幸と信尹が連携して信達を寝返らせようとしたが、失敗したと見てよさそうだと解釈しています。『武徳編年集成』には信達を調略したのは昌幸だとも書かれています(ただし史料的価値は劣る)。


こうしたいきさつを見ても、どうやら信達を調略したのは昌幸と考えてよさそうです。春日信達は春日虎綱(高坂昌信)の子であり、昌幸にしてみれば同じ武田の家臣です。その縁から誘いの手を伸ばしていたということでしょう。


春日信達は武田滅亡後、一度は森長可に従っていますが、本能寺の変が起きると今度は一揆衆を率いて森長可と戦っています。真田丸では一途人物のように描かれていましたが、実際には昌幸同様かなり変わり身の早い人物であったようです。もちろんそうしなければ生き残れなかった時代の話であり、校生の価値観から責められるようなものではありません。


スポンサードリンク



nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。