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やはり「真田幸村」でも良い?真田徹『真田幸村の系譜 直系子孫が語る四〇〇年』 [戦国時代]

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真田丸のおかげで真田信繁という名前は定着しつつありますが、その流れの中にあってこの本では「幸村」と書いています。松代藩士である馬場正常が書いた『滋野通記』の中に、真田信之が「弟はもともと信繁と名乗っていたが、高野山蟄居の折に幸村と名を改めている」と語っている部分があるため幸村で良いのではないか、ということです。


これに関しては丸島和洋さんの『真田四代と信繁』では幸村という名の初出は1672年に作られた『難波戦記』という軍記者が最初であるとし、江戸時代の創作であるとしています。『滋野通記』の成立は1695年でこれよりも後なので、真田家で勘違いしたものなのかもしれません。真田徹さんは幕府と松代藩、仙台藩の公式文書で幸村と書かれているのだから当時の流行の通称を用いるとは思えない、と書いていますが、実際どうなのでしょうか。『滋野通記』の記述が信用できるのかどうか、というあたりがもっと知りたいところです。もっとも真田徹さんは幸村か信繁かという論争は不毛だとも書いているのですが。


幸村の子孫といえば幸村の娘である阿梅が片倉重長に預けられたことが有名ですが、いくら有能であるとは言え何故敵である伊達家の武士に娘をあずけたのか?について、徹さんは幸村と伊達家の間に密約があったのではないか、と推測しています。真田家には大阪臣従時代に片倉家と真田家が隣同士であったとする言い伝えがあるそうで、その時代からの交流でいざという時の約束をしていたのかもしれません。


実のところ、本書の内容は仙台藩の幸村の子孫についてかなりのページが割かれており、幕末に西洋砲術の師範となった真田喜平太のこともかなり詳しく書かれています。伊達政宗と幸村との戦いについては「騎馬鉄砲」のことについても触れられていましたが、やはりこの騎馬鉄砲というのは実態がよくわかりませんね。この当時の伊達家の編成は大部分が鉄砲隊だった、ということは確かなようですが……


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幸村薩摩落ち伝説の作者

 真田徹の大八生存説ねつ造

 これに対し、『左衛門佐君伝記稿』では「真田大八は夭折」と記されている。又、玉露叢(1598年~1681年迄の記録書)にも「真田大八は京都にて早世」と記されている。真田徹の詭弁は根拠を欠いたため、口伝としているが、食い違う資料がでる度、前言を翻し、新たな話をねつ造することを繰り返している。
 真田徹の話には根拠となる記録がなく、昭和になってから話をねつ造したものであることが明らかとなるにつれ、真田徹の話には疑義が持たれている。しかも、真田徹の先祖は片倉守信の系統に途中から養子で入ったとしている。ということは、眞田幸村の血をひいていないことはもちろん、片倉守信の血さえひいていないことになる。にもかかわらず、眞田幸村の子孫と名乗っている。これらが近年、問題となっている。そんな真田徹が真田幸村の薩摩落ちを否定する資格などあるはずがない。
 「片倉守信が真田大八でない9の理由・白石市の教育委員会が訂正した」では、概略、次のようにされている。
 
 伊達政宗による「眞田幸村の子供5人の保護」説は作り話。守信は白石の月心院の檀家にすらなっていない。

 真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁(幸村)の伝記である『左衛門佐君伝記稿』では、「真田大八は夭折」と記されている。又、玉露叢(1598年~1681年迄の記録書)にも「真田大八は京都にて早世」と記されている。蓮華定院の報告書通り、真田大八は 大阪の陣の前に亡くなっている。尚、「実は仙台に生き延びた」と記してある本は「仙台人名大辞書」を参考に記されたものであり、2016年、真田丸で研究が進み、その大辞書の真田の項はデタラメが判明している。もし、大八が夏の陣の時まで存命であっても、母親と一緒に居らず、徳川にとっての大罪人の幸村の子では食事もできず、幸村の息子と云う事が分れば殺される時代だった。そう言う状況の中で、阿梅が片倉重綱の後妻に入るまでの8年間どうやって 生き永らえたのか。「仙台に生きた」と云うのならその証拠が必要だ。大八は早世しているので、その証拠があるはずがない。
 大阪の陣後、家康は幸村の妻子の捜索を命じた。すぐに妻竹林院と女子が見つけ出され、京都の家康に引き渡された時、真田大八は居なかった。既に大阪方から寝返った片桐などから妻子の人数などの情報を得ていた家康がそれ以上の捜査を命じなかったのは真田大八は既に死亡していたと云う確認が取れたからである。神君家康が詮議をして許されたことを後になって外様大名の藩士の事で幕府が「幸村の子ではないか」と咎めることは老中といえどもしない。
 守信が幸村の息子なら、父・幸村の墓を建てているはずである。当然、守信が幸村の子であれば、阿梅の近くに居て連絡も取りあえていたのだから、既に壮年になっている男の守信が位牌等を引き継いだはずである。嫁に行った阿梅にさせるはずはない。当時、阿梅は守信を竹林院の子とは思ってなかったから自分が母親の位牌を龍安寺から引き取った。「阿梅の母・竹林院が亡くなり(1649年)、京都の名刹・龍安寺に葬られた事を知った阿梅が両親の位牌を当信寺に安置した」と寺の記録にある。即ち、守信は幸村の子ではない。又、当信寺にある位牌は、幸村夫妻及び阿梅の位牌は並んでいるが、守信のが無いのは、10年前に亡くなった守信を阿梅が弟と思っていなかったから位牌を作らなかったし、阿梅が亡くなった後は阿梅の縁者或いは住職が守信は幸村の子と言う認識が無いから阿梅だけのを作り、守信の位牌は作らなかった。
 守信は白石の月心院の檀家になっていない。
 真田徹には江戸時代初・中期の古文書の記載は何も無く、言い伝えだけであり、その言い伝えの殆どが史実と異なっている。以上のように間違った言い伝えによると、250年後の明治5年の墓石(真田幸清筆子塚碑文)も間違って彫られてしまう。彫った人は真田の正史、片倉代々記、仙台叢書などの当時の書物を見てないので間違ってしまった。夏の陣時、娘1人が略奪された事が片倉代々記、及び真田の正史に記載されている。男の幼児では足手まといになるだけで略奪する価値も無いので、真田大八の略奪も無かった。よって、仙台に居た片倉守信はもともと仙台の人である。当然、大八ではなく、別人である。尚、娘は数年後に幸村の娘と判明した。その他の江戸時代の公な古文書には「真田大八が大阪の陣後に生きていた」と云う記録は無い。江戸時代に記された仙台叢書に娘を連れ帰った事が記されている。言い伝えがこんなに違うと云う事は「真田徹は幸村の子孫でない」と言う事である。又、言い伝えが無かったとも言える。平成になって「子供5人の保護」を記している本があるが、それは作り話であり、「保護」と記している本は間違いである。
 大河ドラマ真田丸で放映された「幸村の妻子が伊達政宗に保護されたシーン」は、フィクション(作り話)との回答をNHKのハートプラザの松崎さんから直接得ている。保護されていない。妻の竹林院と女児は九度山に向かう途中で家康の命令で浅野氏によって捕縛された事が超有名な人の息子が書いた当時の歴史書に書かれている(1598年~1680年の史実を記した玉露叢)。幸村の二男大八が保護された古文書はなく、逆に早世した記録がある。「大八は死んだ事になっているが、実は片倉氏、或いは伊達氏に保護されて仙台で生きた」とする説はその説を裏付ける証拠がない。昭和になって記述された本は間違いが多く、デタラメが記されている仙台人名大辞書か或いは真田徹の口伝を根拠としている。真田徹の言い伝えは史実と合わない事が多い。
 従来、「片倉守信の墓を真田大八」としていた間違った看板を2016年秋に白石市の教育委員会が訂正した。そもそも大正14年に出版された白石町誌を見ると、「当信寺には大八の墓があるとは伝わっていなかった事がわかる(江戸時代から大正時代まで)」。昭和8年に出版された仙台人名大辞書に記された「真田の項のデタラメ」から徐々にそのデタラメが浸透して行って昭和55年の円柱の案内に至った。結論としては、昭和、平成の時代に片倉守信=真田大八としていたことが明らかな間違いで、全くの別人である事が分る。この事は「守信を大八としてきた真田徹の説が明らかな間違い」と言う事である。当時の阿梅、当信寺の住職、及び守信の子(辰信)の対応が「守信を幸村の子として扱っていなかった」。2016年秋、当信寺にある大八とされていた墓の看板が白石市の教育委員会によって訂正された。
真田の正史では「大八は死んでいて」、「守信は幸村の息子らしいことをしていなく、守信が大八でない理由がたくさんある」のでは、守信を大八と決め付けることは明らかな間違いである。

 真田徹による「京都で噂を流した」「偽装系図(叔父の子孫)」「眞田幸村の子供5人の保護」説はつじつま合わせの作り話。

 江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは何も無く、江戸時代に「眞田三代記」が流行り、眞田幸村が人気となると、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので、明治5年の墓には、幸村10世真田源田左衛門滋野幸清と刻んだ。真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史等が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えた。そして、大正時代に講談で「眞田十勇士(眞田三代記がもとだが、猿飛佐助や霧隠才蔵などが登場し、講談師による完全な創作)」が流行ると、それに便乗しようとして、大正、昭和の時代になり、真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び、つじつまを合わせざるを得なくなり、「真田大八死亡の噂を流した」とか、「系図の偽装(叔父の子孫)」とか、「子供5人の保護説」とか、明治から昭和生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と言い出した。その証拠に系図の真田の真の字の上の冠部分を十にしている。明治・江戸時代の人はカタカナのヒ、即ち旧漢字の「眞」を使った。新漢字の「真」を使っていると云う事は、昭和以降に書かれた系図と云う事である。
 幕末の子孫が墓石に銭紋が付いているのを見て、幸村の子孫と錯覚した。そして幕末から真田も称すようになった。仙台・白石に居たのでは長野の真田本家の正史を見る機会がなく、片倉小十郎などが銭紋を使用したことを知らなかった。明治になり、正式に真田を名乗ることになり、墓石も彫り、益々、幸村の子孫である事とし、納得するようになった。大正時代から昭和にかけて作成された仙台人名大辞書にも講談本からの知識、幕末の先祖の言い伝えを反映させたが、幸村の子孫を称するに当たり、真田家の正史『真田家御事蹟稿』等には大八の死亡説が記されているので、「京都で噂を流した」とか「偽装系図」とか、5人の保護説を出して、つじつまを合わせざるを得なくなった。真田徹は「真田幸村の真実」とか「真田幸村の系譜 直系子孫が語る四〇〇年」等の本を出版した。これは「由緒ある蓮華定院の記録」或いは「真田本家の正史」及び「片倉代々記」等の歴史書の記録が間違っていると誤認させる。
 真田徹の説は江戸時代は分家の信昌の子・信勝(正信)の子としていたと云う。そして、その政信は系図上はいない人(系図の偽造)とのこと。しかし、正式な寛政重修諸家譜には「マサノブ」は実在した人物である。反対に載ってないのは「守信」なのである。そもそも初めから大八が守信と苗字と名前を変えたと言うのなら、叔父さんの系とするニセ系図を作る必要も無い。この点も矛盾する。又、「幸村の子が仙台に生存しているのではないか」と言う噂が立ち、幕府の詮議を受けたものの、「分家の子孫と説明して納得させた」としているが、幕府は 納得するに当たり、実際に信州の本家、分家の話を聞けば何が本当かがわかることになり、その噂の話自体が「作り話」と云うことである。地方の藩士の素性を幕府がチェックする事はない。そもそも、「大八が仙台に生き延びているのでは」と云う噂が出るはずがない。
 当信寺にある墓も証明している。守信は片倉一族の分家の四男と言う縁で、当信寺に葬られた。その証拠に「片倉四郎兵衛」と墓石に刻まれている。もし、守信が大八なら、阿梅及び辰信は、幸村が眠る月心院に墓を作り葬った。つまり、明白に守信は「幸村の子ではない」ということである。尚、当初の守信の墓は片倉一族の墓近辺に有り、阿梅の墓とは別々の所にあった。(昭和の後半に墓の整理で並立された)守信が弟の大八でないので、阿梅の墓は離れたところに葬られた。息子なら真田二郎兵衛守信、或いは片倉(真田)守信と真田の痕跡を墓石に彫ったはずである。人は臨終に際して真実を語るものである。
 『真田家御事蹟稿』には息子・孫と言う文字も無ければ守信の文字も無い。当然、寛政系図(1800年前後)にも記されて然るべきであるが、記されてないということは、沖之進は「幸村の孫ではない」と言う事であり、「守信は幸村の子ではない」ということである。昭和の初めに出された「仙台人名大辞書」の真田の項はデタラメが記されている事が判明した。勿論、1934年~1976年に複数回出た「姓氏家系大辞典」の著者・太田亮先生(家系の専門家で歴史学者)も仙台の真田氏は省いている。
最近、真田徹は「眞田幸村の子供5人を保護する代わりに、徳川家康を討ち取るという眞田幸村と伊達政宗の密約があった」と言い出したが、根拠となる古文書はもちろんなく、作り話の言い伝えもなく、論拠すら示していない。
by 幸村薩摩落ち伝説の作者 (2017-10-05 02:14) 

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