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天皇家の男系継承は女性差別?国連が皇室典範の改正を勧告 [ニュース]

最近の国連は女子高生の援助交際率をやたらと高く見積もったり、どうも何がしたいのかわからない雰囲気があるのですが今回は皇室典範への改正を勧告しています。女性に皇位継承権がないのは女性差別だというのですが……女性が天皇になれていた飛鳥時代や奈良時代は今よりも男女平等的だった、などとは言えないでしょう。


女性天皇を認めるべきか?については多くの議論があるところで個人的にはどちらでも良いと思っていますが、いずれにせよそれは日本国内において決めることであって国連が干渉するような事項ではないと考えています。女性天皇が生まれれば女性差別が解消されるなどというものではないですし、差別を解消するのならもっと実際的な面に目を向けるべきでしょう。


最近はアニメ漫画に対する国連からの表現規制の圧力もありますし、外圧に弱い日本がどれだけこうした圧力に抵抗できるのか心配になります。最近では喫煙シーンすら成人指定となる動きもあり、表現の自由より政治的正しさの方が優先される傾向があるようです。トランプの台頭についても一因は「ポリコレ疲れ」などと言われたりしますが……何事もやりすぎると反動が出てくるということでしょうか。

『十字軍大全』第4回十字軍はヴェネツィアが黒幕ではなかった! [ヨーロッパ史]




十字軍全体の流れについて書かれている本で、まずはオーソドックスな内容といっていいと思います。ただ知らなかったことといえば第4回十字軍についての記述です。


一般的には第4回十字軍というのはヴァネツィアの要求によりコンスタンティノープルを占拠したものと考えられているのですが、これは事実ではありません。確かに十字軍側はヴェネツィアに支払う資金が不足していたのですが、ヴェネツィアが十字軍に要求したのはハンガリーの都市ザラの占領だったのです。十字軍側は結局ヴェネツィアの要求に屈し、ザラを占領することになります。


この行為は確かに良港を確保したいヴェネツィアの要求を呑んだものであり、聖地の奪還とイスラムとの戦いという十字軍本来の目的と全く関係ないことなのですが、ヴェネツィアの要求はここまでであり、コンスタンティノープルの占拠まで要求したわけではありません。十字軍がコンスタンティノープルを攻撃するに至ったのは、全く別の事情によります。


この頃ビザンツでは皇帝イサキオス2世がアレクシオス3世に位を奪われるという事件が起こっていました。イサキオスの皇子アレクシオスは、姉が嫁いでいたドイツ王フィリップに身を寄せます。フィリップはアレクシオスをコンスタンティノープルに連れ戻すため十字軍に銀20万マルクを提供すると持ちかけます。十字軍側はこの提案を呑み、コンスタンティノープルへと向かいました。アレクシオス3世は帝都を脱出し、皇子アレクシオスはアレクシオス4世として戴冠することになります。


しかしアレクシオスはビザンツ人からの支持がなかっただけでなく、十字軍への負債を抱えていたため重税を課したりしたためムルツプロスという人物がクーデターを起こし、アレクシオス4世は殺害されてしまいます。ムルツプロスは十字軍と徹底抗戦する構えであったために十字軍と戦争となり、結局コンスタンティノープルは十字軍に制圧されることとなってしまいました。


結局、ヴェネツィアに支払うお金が足りなかったためにドイツ王フィリップの提案に乗ったことがコンスタンティノープルの制圧につながったのであって、これをベネツィアの陰謀と見ることは無理であるということのようです。ただし、ラテン帝国が成立したことでヴェネツィアがピサやジェノヴァを抑え、多大な利益を得ることになったのは事実です。この結果から、ヴェネツィアが第4回十字軍の犯人に仕立て上げられてしまったようです。

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池上俊一『図説 騎士の世界』感想レビュー [ヨーロッパ史]

ふくろうの本は、ページ数が少ない割に内容は詰まっているものが多いように思いますが、これも内容の濃い本でした。


騎士とは何か?というのは簡単な問いではありません。その言葉の指すところが流動的だからです。カロリング朝時代から既に騎兵は存在していますが、彼らはあくまで軍事的なカテゴリーに過ぎず、騎士道のようなものを持っていたわけではありません。10世紀の末頃からようやく騎士と呼ばれる存在が現れてきますが、彼らは自由民ではあっても貴族ではありません。最初の騎士は城主や豪族に臣従しているか家臣であり、兵士であったわけです。彼らの多くは土地を持たないか、わずかな土地しか持っていませんでした。立場としては貴族の下に位置します。


しかし、ヘースティングスの戦いで騎馬が歩兵に対して優位であることが確認されると騎士の活躍の場は広がり、身分が上昇するものも出てきます。貴族は自分の娘は会の身分の者と結婚させることを嫌がらなかったので、騎士が貴族の娘との婚姻を通じて貴族に上昇することもできたのです。もともとは城付騎士だったものが受封したり相続したりして所領を得て、独立した領主となるケースも出てきます。こうして貴族と騎士の概念が接近していきました。


そして1世紀半ばころから騎士生活の出費がかさむようになると騎士とは帰属の上位のものとみなされるようになり、本来騎士と称していた城の兵士たちは騎士とは言われなくなっていきます。この頃には資金不足から騎士になれないものは「楯持ち」として生涯を過ごすようになり、やがてそれすらも叙任を待つ貴族の立場となっていき土地を持たない本来の「騎士」は楯持ちの地位さえ失ってしまうことになりました。かつて自由農民や職人が蓄えたお金で武装し軍事奉仕で騎士になることもできましたが、すでに騎士は下層からの参入を許さない排他的な階級となってしまったのです。13世紀ころにはすでに他の階級のものが騎士になることはできなくなっていました。


よく知られているように、リチャード1世が騎士のモデルと言われることがあります。この時代では既に王侯までもが騎士と称するようになっていたのです。十字軍を通じて、もともとは私闘(フェーデ)を繰り返し司教領土を荒らすこともあった騎士が神の戦士と位置づけられ、崇高な存在へと変わっていったからです。


こうして見ていくと、下層階級からの参入も可能であったという点など、武士と騎士との共通点を見ることもできます。百姓でも戦場で功績を立てて武士になるものも存在しましたし、高坂弾正などもそのような人物だったようです。一番異なるのは弓の扱いでしょう。日本では弓も武士の嗜みの一つですが、騎士の場合は弓は卑怯な武器だと考えられていました。ただしそうは言っても飛び道具は戦場では不可欠で、やがて百年戦争ではクレシーの戦いにおいてフランスの騎士はイングランドの長弓兵に大敗することになります。この戦いは騎士の没落の象徴のようなものです。


この本の特徴として、騎士には欠かせない馬についてもページが割かれているところです。軍馬として人気があったのはアラゴン・カスティリア・ガスコーニュ産の馬で、シャンパーニュやパリ・ルーアンなどの馬の国際市場では君主や領主の密使が良い馬を買いに来たそうです。イタリアではノルマン人がシチリアの征服に成功したため、ベルベル人やアラブ人から種馬を入手できるようになったことも書いてあります。修道院や大司教も馬の飼育場を持っており、どこの国でも馬の飼育に熱心であったことがわかります。


全体として読みやすく良い本だと思いますが、騎士と帰属についての考察はなかなかに本格的で、シャテルニー(城主領)といった専門用語も出てきたりするので中世ヨーロッパを全く知らないと厳しい部分もあるかもしれません。



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英雄たちの選択「富士山大噴火 現場指揮官・復興への葛藤」 [英雄たちの選択]

今回は江戸時代の災害と復興の話でした。
すでに大地震と津波に苦しめられていた小田原藩に対して富士山の噴火という追い打ちでしたが、火山灰は地元では2mも詰もるというひどい有様でした。この当時の状況について、日本人は記録魔なので庶民もよく記録を残していたと磯田さんは言っています。


そして、当時の幕府が被災者に言い渡したのは自力で復興せよということでした。幕府から何らかの支援策が打ち出されると思っていた農民の落胆は深かったことでしょう。幕府も何もしなかったわけではなく、初めての試みとして全国から現在の震災復興税のようなものを集めていたのですが、問題はこれを集めた荻原重秀です。荻原はマクロ経済家としては非常に優秀な人物で、現代でいう管理通貨制のようなものを考えていたのですが、こういう人はあまりミクロまで頭が回りません。せっかく集めた資金も3割程度しか村の復興のためには使われなかったのです。


代官として現場に派遣された伊奈忠順は農民に懇願されて村の様子を見て回り、廃村の危機に瀕している様子を目撃します。最初は伊奈忠順も自力で対応せよと説いていたのですが、飢餓に悩まされる村の様子を見て支援策を打ち出すことを決意し、農民を直接荻原重秀に面会させて窮状を訴えさせることまでしています。


福田千鶴さんによると、江戸時代の社会では百姓はずっと生まれた土地生きるものと考えられており、それが幕府の基本政策であったといいます。百姓が土地を離れると、どこかの屋敷に奉公して暮らしていくしかありませんが、そうなると本百姓ではなくなるので下駄を履いてはいけないとか傘をさしてはいけないとか、人権すらないような状況に置かれることになります。生まれた村を離れるとはそれほど辛いことなのです。結局伊奈忠順が見捨てなかったために村は復興するのですが、その後伊奈忠順は駿府の米倉を独断で開いて百姓に分け与えたために切腹することになったという説もあります。


もし現在、富士山が噴火するような事態となると空港や高速道路が使えなくなり、灰によって精密機械が使えなくなるなど経済が根本的に麻痺してしまうことになりかねません。江戸時代よりもひどい被害が出る可能性もあります。伊奈忠順の対応がそのまま役立つということはないでしょうが、このようなこともまた知っておくべき史実の一つであるように思います。
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真田昌幸は春日信達を調略したのか? [真田丸]

真田丸第8回「調略」は実にえげつない昌幸の調略が炸裂する回でした。
昌幸は弟の信尹を通じて上杉景勝に身を寄せ、海津城の守りを任されている春日信達に誘いの手を伸ばし、武田の旧臣としての誇りを思い出させて景勝から離反するように説きます。最終的に説得に応じた信達は北条に味方することになり、昌幸はこれを手土産に北条に下るのですが、信尹により信達は殺害され、信達が味方についたことにより有利となるはずだった北条側の計画が水の泡となり、結局北条は兵を引いてしまう……というストーリーになっていました。


これだと、周囲の大名が全て昌幸の思い通りに振り回されているように見えます。権力の真空地帯となった旧武田領で国衆の国を作ると昌幸は言っていましたが、実際、春日信達の調略に昌幸は関わっていたのでしょうか?丸島和洋さんの『真田四代と信繁』を見てみます。



この本の中では、真田昌幸が北条氏直に参陣した7月13日に春日信達の謀反が露見して殺されており、真田氏と小県の国衆が信達の寝返りを手土産として北条氏についたのかもしれないとあります。そして信達が貼り付けにされた直後に信尹は上杉を離れており、北条氏に味方した国衆の中では昌幸が先陣を命じられていることなどから、昌幸と信尹が連携して信達を寝返らせようとしたが、失敗したと見てよさそうだと解釈しています。『武徳編年集成』には信達を調略したのは昌幸だとも書かれています(ただし史料的価値は劣る)。


こうしたいきさつを見ても、どうやら信達を調略したのは昌幸と考えてよさそうです。春日信達は春日虎綱(高坂昌信)の子であり、昌幸にしてみれば同じ武田の家臣です。その縁から誘いの手を伸ばしていたということでしょう。


春日信達は武田滅亡後、一度は森長可に従っていますが、本能寺の変が起きると今度は一揆衆を率いて森長可と戦っています。真田丸では一途人物のように描かれていましたが、実際には昌幸同様かなり変わり身の早い人物であったようです。もちろんそうしなければ生き残れなかった時代の話であり、校生の価値観から責められるようなものではありません。
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