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真田信繁3人目の妻・たかは岸井ゆきのさんに決定 [真田丸]

最初の妻である が第一次上田合戦で亡くなり、二番目の妻は大谷吉継の娘である竹林院となる予定ですが、3番目の妻は岸井ゆきのさん演じる「たか」となるようです。史実では隆清院と呼ばれていた人で、豊臣秀次の娘です。NHKの公式サイトには「命を奪われる窮地を脱する」と書かれていますが、本来なら殺されるところだったんでしょうか。真田信繁のwikiにはあくまで側室と書いてあるのですが……


竹林院は松岡茉優さんが演じる予定ですが、竹林院との間には長男である真田大助と次男・真田大八が生まれています。大八は仙台藩に引き取られ片倉守信として仙台真田氏の祖となります。竹林院は九度山に流されていたとき真田紐のアイデアを考えていたとも言われていますが、1649年まで生きているのでたかは妻といってもあくまで側室なのでしょう。


たかを演じる岸井ゆきのさんは1992年生まれ、身長は148センチと小柄です。
東京ガスのCMで、就活に失敗し続ける姿が心が痛むと批判され放映中止になったこともあります。

このCMは私は知らなかったのですが、かなり賛否両論のある内容だったのですね。
いずれにせよ、岸井さんの確かな演技力が伝わってきます。

KANA-BOONのPVも有名です。

ドラマ99.9では加奈子役を演じています。
大河ドラマは初出演なので、今後ブレイクするかもしれませんね。
出番はどれくらいあるかわかりませんが……やはり竹林院以上には目立たないでしょうか?
3番目の妻といっても、信繁の生存中は竹林院はずっと生きていますからね。


隆清院と信繁の間にも子が生まれています。五女のなほは出羽亀田藩の藩主である岩城宣隆に嫁ぎ、三代藩主岩城重隆を産んでいます。岩城重隆は城下町の整備や新田開発に力を入れた名君と言われています。なほは礼儀作法や書など、子には厳しく教育したようですが、岩城重隆が名君となれたのもなほの教育の賜物なのかもしれません。この素質も隆清院から受け継いだものでしょうか。
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やはり「真田幸村」でも良い?真田徹『真田幸村の系譜 直系子孫が語る四〇〇年』 [戦国時代]




真田丸のおかげで真田信繁という名前は定着しつつありますが、その流れの中にあってこの本では「幸村」と書いています。松代藩士である馬場正常が書いた『滋野通記』の中に、真田信之が「弟はもともと信繁と名乗っていたが、高野山蟄居の折に幸村と名を改めている」と語っている部分があるため幸村で良いのではないか、ということです。


これに関しては丸島和洋さんの『真田四代と信繁』では幸村という名の初出は1672年に作られた『難波戦記』という軍記者が最初であるとし、江戸時代の創作であるとしています。『滋野通記』の成立は1695年でこれよりも後なので、真田家で勘違いしたものなのかもしれません。真田徹さんは幕府と松代藩、仙台藩の公式文書で幸村と書かれているのだから当時の流行の通称を用いるとは思えない、と書いていますが、実際どうなのでしょうか。『滋野通記』の記述が信用できるのかどうか、というあたりがもっと知りたいところです。もっとも真田徹さんは幸村か信繁かという論争は不毛だとも書いているのですが。


幸村の子孫といえば幸村の娘である阿梅が片倉重長に預けられたことが有名ですが、いくら有能であるとは言え何故敵である伊達家の武士に娘をあずけたのか?について、徹さんは幸村と伊達家の間に密約があったのではないか、と推測しています。真田家には大阪臣従時代に片倉家と真田家が隣同士であったとする言い伝えがあるそうで、その時代からの交流でいざという時の約束をしていたのかもしれません。


実のところ、本書の内容は仙台藩の幸村の子孫についてかなりのページが割かれており、幕末に西洋砲術の師範となった真田喜平太のこともかなり詳しく書かれています。伊達政宗と幸村との戦いについては「騎馬鉄砲」のことについても触れられていましたが、やはりこの騎馬鉄砲というのは実態がよくわかりませんね。この当時の伊達家の編成は大部分が鉄砲隊だった、ということは確かなようですが……
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安史の乱の原因とは何か?『世界史リブレット 人 安禄山 「安史の乱を起こしたソグド人」』 [東洋史]




世界史リブレット人シリーズには人物伝の色が濃いものと、ある人物を鍵としてその時代を考察するものおがありますが、これは後者に属します。楊貴妃や玄宗とのかかわりなどは最小限に抑え、かわりにソグド人のネットワークや突厥や契丹などとのかかわりに力を入れて書かれています。


著者によれば安禄山は「ソグド系突厥」でした。ソグド系突厥とはソグド人特有の交易能力や語学力を買われて突厥に用いられていたソグド人のことで、史書には「胡部」として登場します。突厥はソグド人を重く用いたために可汗の周囲の突厥人が不満に思ったことが突厥第一汗国の崩壊の一因となったともいわれています。


一度は突厥を滅ぼした唐でしたがやがて唐の羈縻政策も破綻を見せ、安禄山の親はは突厥第二可汗国が成立するとともにモンゴリアに帰っていきました。安禄山の母親は突厥のシャーマンであり、これがのちに反乱を起こすときに権威として機能したと考えられます。安禄山はソグド人でありつつ、遊牧民の血も濃厚に持っていたことになります。


そして716年、突厥のカプガン可汗が没しビルゲ可汗が即位すると、カプガン可汗派の突厥人やソグド系突厥は唐に亡命し、その中に安禄山も含まれていました。後に安禄山は軍人として頭角を現し節度使にまで登りつめます。安禄山が根拠としていた幽州は当時は漢人と遊牧民の雑居する地域で、ソグド人のギルド(行)も多数存在していました。安禄山はソグド人のネットワークを活用し、反乱のための資材を蓄えていました。そして幽州に住む契丹や奚と結び、唐に亡命してきた突厥人の集団をも取り込んで精兵を蓄えます。


こうして騎馬遊牧民を中心とする15万の軍をもって安禄山は反乱に踏み切るのですが、これは安禄山が「ソグド系突厥」であったからこそ可能なのでしょう。ソグド人の資金力と騎馬遊牧民の軍事力を兼ね備える存在だったということです。ソグド人は交易の民として知られていますが軍人も多数おり、安禄山自身も騎馬民族化した存在でした。もともとアレクサンドロスがサマルカンドを攻めた時にも相当苦戦したといいますから、もともとソグド人は勇猛だったのかもしれません。玄奘もサマルカンドを通過した際に、ソグドの軍隊は強くたくましいと大唐西域記
に記しています。


こうしてみてくると、安禄山の乱が単に玄宗や楊国忠との関係で描けるようなものではなく、北方の遊牧民の動きが大きく絡んでいることが分かります。ソグドや突厥、奚や契丹はそれぞれ独立を夢見て安禄山にその願いを託したのかもしれません。しかし安禄山軍の弱点はこうした多くの民族の混成体であるところにありました。安禄山のカリスマ的能力がこれらの民族をを束ねる力となっていたため、安禄山が没してしまうとこの軍団は空中分解してしまうからです。


現在、安史の乱は契丹の遼帝国や西夏・セルジューク朝やハザールなどの遊牧民が農耕民を支配する征服王朝の先駆けとして再評価されつつあるようです。安禄山の時点では征服王朝が誕生するにはまだ早すぎたという見方もあり、その視点からみるとアジア史の中でも非常に興味深い出来事であるといえそうです。

英雄たちの選択「ルールを破れ!戦国ベンチャー~北条早雲 下剋上成功の秘密~」 [戦国時代]

再放送で見ましたが、今回は戦国大名の先駆けとなった北条早雲でした。かつては一回の素浪人から成り上がったと考えられていた早雲ですが、番組では室町幕府で足利義尚の申次衆を勤めていたという説を採用していました。現代で言えば高級官僚です。早雲はエリート街道を歩んでいたのです。若い頃の早雲は建仁寺や大徳寺で善を学んでいますが、この頃寺にあった兵法書も読んで後に守護大名に軍師として仕えることも考えていたのではないかという小和田さんの指摘もありました。


今回の選択は足利茶々丸が異母弟の潤童子と円満院を殺害して伊豆が混乱に陥ったところで伊豆に討ち入るか静観するか?というところでした。今回磯田さんは呉座勇一さんと同じで静観する方を選択しています。堀越公方の背後にある関東管領上杉氏の強大な勢力に対抗し得ないと考えたためです。今川家の兵を借りたとしても、上杉の兵に対抗するにはとても足りないと磯田さんは見ていました。


伊豆に入った早雲は百姓や侍に所領を安堵すると約束し、当時流行っていた病気の看護をさせたので皆早雲の善政に感謝しました。早雲は伊豆国内の職人にも土地を与えて優遇しており、在地の勢力をしっかり掌握する早雲の性格が見て取れます。これらの行為は早雲が優しいというよりは合理的な計算で行ったことだと中野さんは見ており、磯田さんも早雲は民に優しい反面、抵抗する者は女子供も含めて皆殺しにするなど残酷な面もあったことを指摘しています。年貢を四公六民と安くして検地を行い村の境界争いをなくすなど早雲の民政には画期的なものがありましたが、それもそのほうが政治が安定するという合理的判断からだったのでしょう。明応の大地震と津波の被害者の救済も早雲が当たったとされていますが、これもすべて計算ずくの行為かもしれません。


早雲はむやみに領国を拡大するよりも、まず在地の勢力をしっかり取り込んで民政を安定させることを優先していることが早雲のその後の行動を見てもわかります。このように内政を充実させたため、北条家はその後100年にわたり存続しました。今後真田丸では秀吉による北条攻めが描かれることになるでしょうが、氏政から見れば秀吉などほんの成り上がりにしか見えなかったでしょう。


早雲の評判は死後まもない頃の人たちからしても決して悪いものではなく、「禄寿応穏」の印判も名ばかりではなかったでしょう。黒田基樹さんの『戦国大名』は北条氏を中心に書かれていますが、これは北条氏の史料が多く残されているからです。つまりそれだけ北条氏が内政に力を入れていた証拠であるとも言えそうです。
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英雄たちの選択「すべては民のために!“名君”徳川宗春の挑戦」 [英雄たちの選択]

今日は尾張藩の殿様・徳川宗春の話でした。この人については『逆説の日本史』で初めて読んだのですが、世界史を何歩も先を行く先進的な人物であったと冒頭で紹介されています。元禄文化の名残が残る江戸で町人とも接して若い日を過ごしたと言いますが、やがて吉宗と接することとなります。吉宗も宗春も生まれついての後継ではないため、広い人物と接して視野が広くなると大石学さんが指摘しています。宗春の若い頃に出していたお触れに、朝鮮の医学書の価格を安くせよというものがり、庶民のことを考えていたことがわかります。


しかし、吉宗と宗春とでは経済政策の点が全く相いれませんでした。吉宗の質素倹約令により景気は停滞してしまいますが、尾張藩主となった宗春の経済政策は正反対で東照宮の祭りの規制緩和を行い、質素倹約例以前の大規模なものに戻しました。藩士の芝居見物も許可し、芝居小屋が増えて新たな繁華街が生まれ商業も活発化し、伊勢の名物なども名古屋で食べられるようになりました。人口は五万人から七万人へと増え、江戸と京に続く大都市になるという道を開いたのです。藩士に歌舞伎見物に行って良いなどというのは破格の待遇で、そういう「悪所」に行ってはならないというのが武士としては普通でした。


法令が多過ぎると人の心は萎縮するというのが宗春の考え方で、これは吉宗とは正反対のものでした。宗春は名君の評判が広まり、吉宗にとっては見過ごせない存在となりました。宗春の政治思想をまとめた「温知政要」には「千金を溶かしたものでも人の命には変えられない」という人命尊重の思想が見られ、人の価値観は多様で、どれが優れているわけではないという近代の自由主義に近い思想もすでに持っていました。これはヨーロッパの啓蒙思想より半世紀も早いもので、宗春は日本最初の啓蒙君主とも言われます。


こうして名君との評判が立ち始める宗春ですが、江戸での物見遊山を宗春に問いただされます。ここで今回の選択です。今まで通り規制緩和路線を続けるか、吉宗に従い緊縮政策に改めるか?宗春は付家老を通じて中央との関係改善も図っていますが、それでも吉宗に逆らい続けることには不安がありました。


ここでヒントになるのが享保一八年の江戸での打ち壊しです。吉宗の緊縮政策は破綻に近づいていたのです。これを考えるとやはり独自路線を続けたほうがいいように思えてきます。飯田さんも吉宗に従う路線を選びましたが、従うふりをして実はあまり従わないようにすればいいと言っていたので実質的に独自路線と同じでしょう。心情的にはこれは誰もが宗春を支持したくなりそうです。


結局、吉宗の詰問に対して反論し、独自路線を継続することにしました。そして宗春は領内で大規模な巻狩りを計画します。これは軍事演習のためと思われますが、実は巻狩りをすることで経済を活発化させる目的があったようです。しかしこれは外からは将軍家との騒乱を計画しているように見えてしまうので中止されてしまいました。


良いことずくめに見える宗春の経済政策にも弱点はあります。関東以東ではこのような都市経済が成立するかどうかは難しいと飯田さんは指摘し、東北ですと全人口を食糧生産につぎ込んでもまだ足りないくらいの状態でした。吉宗は民を飢えさせてはならない責任があるので、全国を治める吉宗としては宗春モデルを良しとするわけには行かなかったのかもしれません。


結局、宗春が参勤交代で江戸へ行っている間に重臣が宗春の規制緩和策をすべて廃止してしまいました。クーデターが起きたのです。宗春は謹慎を申し付けられ、69歳でその生涯を閉じました。宗春は死後も許されず尾張藩でも宗春の記録はほぼすべて抹消されましたが、庶民は宗春の世について語り継いでいます。民を慈しむ宗春の政治姿勢は尾張の末端にまで伝わっていました。


もし宗春の政治がもっと続き、商業に課税する方法を思いついていたら幕藩体制はもっと早く終わっていただろうと飯田さんは指摘していましたが、宗春の政策はそれくらいの先進的なものでした。生まれる時代が早すぎたと思える程の人で、今回はこの番組史上一、二を争うくらい面白い回だったのではないかと思います。
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[読書]アルベルト・アンジェラ『古代ローマ帝国 1万5000キロの旅』 [ギリシャ・ローマ]




今までローマ関連の本はいくつか読んできましたが、ローマの社会風俗についてこれほど詳しい本はなかなかないと思います。ローマで使われていたセステルティウス通貨がローマ帝国の各地方を巡るとともに各地の様子を描くという手法で描かれているのですが、地方ごとの特色がしっかりと出ていて面白い内容になっていると思います。


やはりローマよりも地方や辺境の様子が面白いですね。冒頭はロンドン(ロンディニウム)の様子から始まっていますが、やはり辺境だけに住民はケルト人のほうが多く、周囲では原住民が刺青をして祭りをしている様子なども描かれます。ロンディニウムは商売のために一から作られた土地だったのですね。今のテムズ川のような跳ね橋も存在していて、船が通行できるようになっていたそうです。


ローマ人の発明になるものは靴下や生ハム・ビキニ・蝋燭や滑車にビー玉・選挙用ポスターやコンクリートや下水道・拡大鏡など。眼鏡のレンズはネロ帝が剣闘士を見るために用いたといわれています。ローマ人の文明の力には驚かされますね。


ローマは開かれた帝国であったといわれますが、その様子は17章の「アフリカ 人種差別のない帝国」で描かれています。ローマは北アフリカの内陸部にタムガディという都市を建設していますが、この都市は建設後50年で住民がほぼ地元のヌミディア人ばかりとなり、残された落書きからヌミディア人がテルマエに入るのを楽しみにしていたことが分かっています。ローマは都市建設でヌミディア人を見事にローマ化するのに成功したのです。


古代ローマでは人種や肌の色で差別を受けることはありませんでした。ローマは開かれた帝国だったのです。軍人皇帝のセプティミウス・セヴェルスは褐色の肌だったといわれますが、そういう人でも皇帝になれたのです。フィリップス・アラブスはその名のとおりアラブ人でしたし、五賢帝のひとりであるトラヤヌス帝もスペイン人です。各民族の宗教も尊重されていました。ただし、財産と社会階級による厳格な差別は存在しています。


ライン川付近ではゲルマン人との戦いの様子や、スペインでは金採掘の様子が描かれるなど、地方の状況に応じて多彩なローマ帝国の内実が描かれています。創作の参考にもなりそうですし、ローマだけでなく歴史に興味のある人なら満足できる1冊ではないかと思います。

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