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ティムールの貴重な情報源 陳舜臣『中国の歴史6』 [遊牧騎馬民族]

中国の歴史 6

中国の歴史 6
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陳舜臣さんは今年初め90歳で亡くなりましたが、陳さんの本は大学時代からよく読んでいたので特別な思い入れがあります。この方の『中国の歴史』は何度も繰り返し読みました。今でもその面白さは変わりませんが、この6巻の価値はティムールに触れている部分にあると思っています。この本が発売された当時まだティムールに関する本は少なく(今でも多くはないですが)、この人物に関する貴重な情報源になっていたのです。


ティムールは戦争の天才であったことで知られ、最終的には明の制服を企んでいたと考えられています。当時の明の皇帝は永楽帝で、こちらも軍人として傑出した才能を持っていました。ティムール20万の軍隊を率いて東征する途上で病没してしまいますが、生きていればこの両雄の激突が見られたのでしょうか。陳舜臣さんはこの件についてこう書いています。


「かりにこの老皇帝の率いる軍隊が、明と戦うことになっても、おそらく勝利は望めないでしょう。即位したばかりの永楽帝は、気力充実した壮年の将軍皇帝でした。その後の5回にわたる遠征でもわかるようにきわめて積極的でした。長途の遠征に疲れたティムール軍は、漠北の地に壊滅したにちがいありません」


中国人の陳さんはやや中国びいきに書いているかもしれませんが、ホームグラウンドである中国で戦えるメリットのある永楽帝の方がやはり有利ではあるでしょう。


ところが、ティムールはじつは明征服を目指していなかったのではないか?という見方もあるのです。ティムールのWikiを見てみると、「ティムールの東方遠征の真意については、単に戦利品が目的[192]、中国ではなくモンゴル高原が遠征の目的地だった、当時ティムールの元に亡命していた北元の皇子オルジェイ・テムルを北元のハーン位に就けて全モンゴルへの影響力を有する意図があったと諸説ある」とあります。モンゴル高原への遠征が目的というのは岡田英弘さんが『モンゴル帝国から大清帝国へ』のなかで書いていることのようです。


ティムールはチンギス・ハンに匹敵する存在となるため生涯中国征服を目的としていたとされ、陳さんもこの見方を取っているのですが、目的がモンゴル高原遠征だったとなるとまた情勢は変わってきます。ティムールはまずモンゴル諸族の統一を目指していたのかもしれません。しかしその場合でも、北方に大勢力が誕生することを恐れる永楽帝は必ず介入してくるでしょう。ティムールと永楽帝との対決はやはり避けられなかったのではないでしょうか。


ティムールが何を目指していたのかは知ることはできませんが、確かなことはティムールの子孫はティムールの征服事業を継承せず、明と和親の道を選んだことです。チンギスの子や孫の代になっても征服を続けた時代とはここが全く異なっています。チンギスの時代ですでに金王朝は衰退していましたが、まだ発展の途上にある明を征服するなど現実的ではないと判断したのでしょうか。
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世界史リブレット 人シリーズの新刊は冒頓単于と袁世凱 [遊牧騎馬民族]

8月25日発売の世界史リブレット人シリーズは冒頓単于と袁世凱です。二人とも東洋史の人物、というのは珍しい気がします。冒頓単于の方は『匈奴』の著者の沢田勲さんなので内容的には間違いないと思いますが、冒頓に関して史記で知ることのできる以上の情報って何かあるんでしょうか。近年の考古学的な発見等があるのなら読んでみたいのですが。


田中比呂志さんは中国近現代史の著書が何冊かあるようですが読んだことはありません。この二人ならどちらかというと冒頓単于の方を読みたいですが、この人一人だけで本1冊書くほどの情報量があるのかどうか…カール大帝みたいに前後の時代も含めて書くということかもしれませんが。


沢田勲さんの『匈奴』は匈奴についてコンパクトにまとまった良書です。興亡の世界史シリーズの『スキタイと匈奴 遊牧の文明』とあわせておすすめします。


8月25日発売の本としては鶴島博和『バイユーの綴織(タペストリ)を読む』も面白そうです。「イングランド人の王とノルマン人の公の戦いを描いた長大な絵巻から、史料を駆使して11世紀、北西ヨーロッパの海峡世界を読み解く」との事。
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フン族は匈奴なのか?(3)フン族の登場 [遊牧騎馬民族]

フン族が初めて歴史に登場するのは376年、黒海西北岸にいた西ゴートが東方から出現した騎馬軍団に攻撃され敗走したという報告がもたらされた時である。北匈奴が消息を絶ってから200年以上も後のことである。フン族は350~360年頃にヴォルガ川を越えアランを服属させたらしいのだが、北匈奴がアオルソイを征服したという記事が事実ならば地理的には匈奴=フン族と考えても不自然ではない。カスピ海北岸に移住した北匈奴がさらに西進して西ゴートに攻撃を加えたと考えれば辻褄は合う。

しかし、匈奴がカスピ海北岸に移住していたということが確定的ではない。魏書西域伝には栗特国の王を匈奴が殺して支配するようになったとあり、この栗特国はかつての奄蔡(アオルソイ)であったという記述があり、アオルソイがカスピ海北岸に居住していた民族であるため北匈奴がカスピ海北岸にまで移動していたということが推定されるのだが、モンゴル史家の宮脇淳子は『モノゴルの歴史』の中で「モンゴル高原西部からアルタイ山脈を超えてしまうと中国の史料はほとんど役に立たない」と書いている。その割にはこの本ではフン族は匈奴であると書いているのだが、魏書西域伝の記述が信用できなければ北匈奴がどこまで移動したのかもはっきりしなくなってしまうのだ。

何より、北匈奴が消息を絶ってからフン族が現れるまでの沈黙が長すぎる。ここはもはや史料で負うことができないため推測するしかなくなるのだが、周囲の民族との関係はどうだったのか?それまでローマに知られていなかったのはローマとは没交渉だったからなのだろうが、それにしても情報が少なすぎる。アランや西ゴートに攻撃を加えるまで目立った戦争はしていなかったのだろうか。北匈奴がどこまで移動したか、そして北匈奴が沈黙してからフン族が現れるまでの沈黙の200年間をどう考えるか、がフン族と匈奴の関係を考える鍵となる。この点は現存する史料ではこれ以上負うことができないため、これ以上の議論の進展は考古学の成果に負うしかないだろう。

ギボンの『ローマ帝国衰亡史』ではフン族は匈奴であると書かれていた記憶がある。それだけこの話題は当時の知識人にとっても興味深いことだったのである。その真偽はともかく、個人的にはフン族は匈奴、ないしは匈奴に服属していたアジア系遊牧民であると考えたいところである。そのほうが世界史がダイナミックに感じられて面白いからという個人的願望に過ぎないが、今まで見た来た限りそれほど無理のある想定とも思えない。私は確定していない説については信じたい方を信じることにしているから、決定的な証拠が出るまではフン族=匈奴であると考えたい。個人的願望なら何を信じようが良いのだ。

フン族は匈奴なのか?(2)匈奴の南北分裂と北匈奴の行方 [遊牧騎馬民族]

フン族は匈奴なのか?を考えるにあたり、まず匈奴の足取りについてまとめておきたい。

事は匈奴の南北分裂に始まる。王莽の新王朝がが前漢を滅ぼすと王莽は匈奴に対して高圧的な政策をとるが、これが刺激となり匈奴は連年中国に侵入し、その被害は武帝時代を上回るとも言われている。この時代が匈奴の最後の黄金時代であった。やがて単于の位を輿単于一族が独占していることに日逐王の比が反対して謀反を起こし、漢と協力して単于と戦うこととなる。呼韓邪単于を名乗った比に従う勢力は南匈奴となり、華北と内モンゴルをその勢力範囲とした。これに対し外モンゴルに位置するのが北匈奴で、ここに匈奴は南北に分裂することとなった。西暦48年の出来事である。

この後後漢に内府した南匈奴は次第に遊牧民としての面影をなくしていくのだが、ここで重要なのは北匈奴である。王莽時代に中国は西域を失っていたが、北匈奴は再び西域に進出し亀茲国を含む西域の北部を支配している。後漢は光武帝期の休息を経て再び西域進出を目指し、班超を西域に送り込む。班超は西域都護として31年間西域を北匈奴から防衛し、息子の班勇もまた西域都護として活躍した。この頃北匈奴は衰亡の一途をたどっており、87年には匈奴は鮮卑の攻撃を受け、89年には竇憲により主力部隊が撃破され24余万人が漢に投降している。91年には漢・南匈奴連合軍が北単于軍を金微山で破ったためついに北匈奴はモンゴル高原を捨て、イリ地方にまで敗走することとなった。イリ地方はかつて漢と同盟し匈奴を討った烏孫の住んでいた土地である。モンゴル高原には鮮卑が入り込み、匈奴はその本拠地を失うこととなった。

西方に移動した北匈奴は烏孫や西域諸国を従え、『後漢紀』には123年頃、北匈奴は蒲類と秦海の間に展開していたと記しているが、蒲類は天山山脈北部のバルクル・ノールであることは定説になっているが、秦海がどこかについては確定していない。秦とはローマのことなので秦海は素直に読めば黒海を指すことになるが、林俊雄は黒海では遠すぎるので西域のどこかの湖ではないかと推測している。秦海が黒海であれば早くも2世紀前半の時点で匈奴とローマとの接点が出てくることになるが、これは推測の域を出ない。この後北匈奴と漢とは車師国とその周辺をめぐり争い続けるが、151年に伊吾国を攻めた呼延王に後漢が軍を派遣すると呼延王は去っていった、という記事が後漢が記した北匈奴の最後の記録である。

この後、魏書の西域伝に北匈奴が登場する。魏書西域伝には北単于は金微山を越えて康居に逃れたと記しており、これが西域諸国に対する支配権を放棄した証拠とされる。これがキルギス草原への移住であり158年頃と考えられるが、シルクロードの交易の利権を失ったことは大きな痛手であったと考えられる。モンゴル高原の支配者はすでに匈奴から鮮卑に代わっていたが、鮮卑は英雄檀石槐の登場により急速に勢力を拡大し、166年には烏孫と境界を接するほどになった。烏孫はイリ地区に存在しているため、北匈奴は鮮卑の勢力拡大に押されてさらに西進し、シルダリヤ北岸あたりにまで移動したと考えられる。そして魏書西域伝には栗特国の王を匈奴が殺して支配するようになったとあり、この栗特国はかつての奄蔡であったという記述もあるが、この奄蔡とはカスピ海北岸に存在したサルマタイ系遊牧民のアオルソイに比定されている。この記事を信じるならば北匈奴はカスピ海の北岸にまで移動してきたことになるが、アオルソイが栗特と同じであると書かれていることで話がややこしくなる。栗特とはソグドのことであり、中央アジア南部の定住農耕民と遊牧民であるアオルソイが同じであるとは考えられない。いずれにせよ、これ以上は北匈奴の動静を史料で追うことはできない。
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フン族は匈奴なのか?(1)匈奴とフンの身体的特徴 [遊牧騎馬民族]

かつて漢文明の北辺にあり、中華世界を苦しめた遊牧民族・匈奴は一時期白登山の戦いにて劉邦を虜とするほどの強勢を誇り、武帝の匈奴征伐などで次第に衰微するもしばらく北方の雄として君臨した。しかし次第に鮮卑や烏桓などの台頭によりその力は衰え、三国時代には曹操に五部に分割される程度にまで落ちぶれてしまう。匈奴の一部は西へ落ち延び、これがやがてフン族と呼ばれローマを脅かす存在となったと言われているのだが、フン族が匈奴であるのかは未だに議論の分かれるところであり、はっきりとした結論は出ていない。

なぜ議論が分かれるかとういと、まず匈奴の身体的特徴が明らかでないということがある。故・陳舜臣氏が述べているように、史記や漢書には民族の身体的特徴が書かれていないのである。史記の匈奴列伝や大苑列伝などを見てみても、確かにその種の記述は全く見られない。匈奴の慣習や風俗については詳しく記述してあるのだが、その外貌については史記や漢書から窺い知ることができないのである。ローマ側の史料にはフン族の身体的特徴として「アッティラは背が低く、胸は広く、巨大な顔を持ち、眼は小さくて落ちくぼみ、髯は薄く、鼻は低く、顔色は黒ずんでいた」と書かれているが、これはフン族がモンゴル系の民族であることを示唆している。しかしそれがただちにフン族が匈奴であることを意味するわけではない。そもそも匈奴がモンゴル系かトルコ系かもはっきりしないし、一口にモンゴル系といったところでそれが匈奴とも限らないのである。匈奴は多くの部族の連合国家であり、その中に多くの民族を含んでいる。だからこそ外見的特徴を書けなかったのだと陳舜臣氏は言っている。

司馬遷の記述と比べてみると、フン族の記述は野蛮人そのもので悪魔のような残忍さと不潔さに満ち満ちている。おそらくはかなりの偏見が入り込んでいるものと思われる。司馬遷は匈奴について比較的冷静に記述しており、一見野蛮に見える匈奴の習慣もそれなりに理にかなったものであるということを中行説の口を借りて言わせている。匈奴もフン族もこれと対峙する側からすれば大いに脅威であったのだが、中国側の資料が比較的冷静であるのは匈奴と接触していた期間が長く、匈奴以前にも遊牧騎馬民と対峙してきた歴史があるのでその生態について詳しく知っていたからではないかと思う。特に戦国七雄私の内最も西方から興った秦などは自らが遊牧民だったのではないかとも言われる。ローマ側はケルト人やゲルマン人との接触はあるが、彼らは遊牧騎馬民ではない。ローマ側がフン族をエイリアンのように記しているのは、騎馬民族をあまり知らなかったからではないかと考えられる。この点、モンゴル人を悪魔のように恐れていたヨーロッパ側の態度とも共通するものがある。モンゴルは中華世界にとっても重大な脅威であったが、少なくとも漢人にとって彼等は未知の存在ではなかった。その差が史料に現れている。

匈奴の外見的特徴は、「晋書」の頃からようやく史書に現れる。匈奴のリーダーである劉渕は身長が2メートル近い長身で、劉渕の甥の劉曜は二メートルを超え体毛は長かったとされる。単于の家系は堂々たる体躯の持ち主だったようで、アッティラの描写とはまるで異なっている。劉渕は史記漢書を始め詩経から左氏伝に至るまで通じない漢籍はなかったと言われる教養人で、この頃には匈奴はすっかり漢化されていた。ローマに侵入したフン族とはかなり異なる。こうした東西での史料の描写の食い違いが匈奴=フン族と断定することをためらわせる。もちろんフン族が匈奴であったとしても、長城の南に移住し文明化された後漢代の匈奴と西走した匈奴とでは置かれていた環境が全く違うので異なっていても当然なのだが、外貌の描写の違いはやはり気になる。アッティラは劉渕とは別の家系なのだろうか。あるいは匈奴の下にいたモンゴル系の部族がかつて強勢を誇った匈奴の名を借りていたのかもしれない。
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[読書]「図説 蛮族の歴史 世界史を変えた侵略者たち」 [遊牧騎馬民族]

前回図書館で借りたときはあまり見るべきところもないなと思ったんですが、ヴァイキングの知識が多少付いた今となってはちょうど良かった本。取り上げられている「蛮族」はフン族やゴート族、ヴァンダル、アングロサクソンン、フランク、ヴァイキングとモンゴル。ローマ末期のゲルマン民族の侵入からヴァイキングの活動、そしてモンゴルを扱ってます。西洋視点なのでモンゴルについてはキエフ・ルーシや東ヨーロッパ諸国との戦いが中心。いまどきモンゴルを蛮族なんて言ったら杉山正明先生あたりは烈火のごとく怒りそうですけどね。モンゴル好きな方で特にバトゥ好きな方は割と詳しく書かれているのでおすすめできます。あくまで「蛮族」の歴史なので元王朝のフビライのような「文明人」はここには登場しません。モンゴルの支配が東西文化の交流を促したといったプラス面での評価は全くないので、ある意味モンゴルや遊牧騎馬民族への偏見を助長する内容かもしれませんね…

全体としてはなかなかまとまりのいい本で、東ゴート王アラリックやフン族の王アッティラ、ヴァンダル王ガイセリックの活動を書いた後ヴァイキングの活動に移り、特にキエフ公国の歴史などはなかなかに詳しく書かれています。このあたりを扱った本は日本では世界歴史大系のロシア史や、「物語 ウクライナの歴史」など数少ないので重宝しそうです。イーゴリ公が艦隊を率いてビザンツに遠征しギリシア火で撃退されるあたりなど、ヴァイキングの冒険行の一つとしても楽しめます。一方でそのビザンツ側にもヴァリャーギというヴァイキングで構成された傭兵部隊があるのも面白い。一方イギリスでのバイキングの活動はあまり詳しくなく、ヴィンランド・サガでお馴染みのクヌート大王にも少ししか触れられていません。一方アルフレッド大王については比較的詳しく、ちょっと力点の置き方間違えてるんじゃないかという感もあります。

ただしフン族に関しては少々気になる記述も。フン族は鐙を使用していてこれがローマに伝わったと書かれているのですが、西洋に鐙が伝わったのはカロリング朝時代にアヴァールの騎乗法を真似たからというのがリン・T・ホワイトの説だったのではないでしょうか?このあたり詳しくないのですが、このまま首肯できる内容ではありません。

なんでこれを借りたかというと、Total War:Attilaが発売されてローマ末期や中世初期にちょっと関心が出てきたからで、このゲームに関心のある方なら楽しく読めていいのではないかと思います。にしても西洋のストラテジーというのはすごいですね。トータルウォーローマ2を作ったかと思ったら、今度はそのローマを蛮族側で破壊するゲームを作るんですからね…いや西ローマや東ローマでもプレイすることは可能なのですが。ゲーム自体はまだ日本語化パッチが製作中なので買っていませんが、ニコニコ動画などで少しづつ内容を追っているところです。

本の内容のうち150ページ程がヴァイキングを扱っているし、アイルランドにおけるヴァイキングの活動など、この本以外ではなかなかわからない歴史なども読めるのでヴァイキング好きな方にもオススメです。ヴァイキングに関してはこの本の他に「アイスランドの歴史と文化」「北の農民ヴァイキング」岩波のヨーロッパの中世シリーズの「辺境のダイナイズム」もヴァイキングを扱った本としてはおすすめです。アイスランドやアメリカに渡ったヴァイキングの活動についてはジャレド・ダイアモンドの「文明崩壊」でも取り上げられていますが、こちらは歴史というよりは環境問題という視点からのアプローチとなっています。
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