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やはり「真田幸村」でも良い?真田徹『真田幸村の系譜 直系子孫が語る四〇〇年』 [戦国時代]




真田丸のおかげで真田信繁という名前は定着しつつありますが、その流れの中にあってこの本では「幸村」と書いています。松代藩士である馬場正常が書いた『滋野通記』の中に、真田信之が「弟はもともと信繁と名乗っていたが、高野山蟄居の折に幸村と名を改めている」と語っている部分があるため幸村で良いのではないか、ということです。


これに関しては丸島和洋さんの『真田四代と信繁』では幸村という名の初出は1672年に作られた『難波戦記』という軍記者が最初であるとし、江戸時代の創作であるとしています。『滋野通記』の成立は1695年でこれよりも後なので、真田家で勘違いしたものなのかもしれません。真田徹さんは幕府と松代藩、仙台藩の公式文書で幸村と書かれているのだから当時の流行の通称を用いるとは思えない、と書いていますが、実際どうなのでしょうか。『滋野通記』の記述が信用できるのかどうか、というあたりがもっと知りたいところです。もっとも真田徹さんは幸村か信繁かという論争は不毛だとも書いているのですが。


幸村の子孫といえば幸村の娘である阿梅が片倉重長に預けられたことが有名ですが、いくら有能であるとは言え何故敵である伊達家の武士に娘をあずけたのか?について、徹さんは幸村と伊達家の間に密約があったのではないか、と推測しています。真田家には大阪臣従時代に片倉家と真田家が隣同士であったとする言い伝えがあるそうで、その時代からの交流でいざという時の約束をしていたのかもしれません。


実のところ、本書の内容は仙台藩の幸村の子孫についてかなりのページが割かれており、幕末に西洋砲術の師範となった真田喜平太のこともかなり詳しく書かれています。伊達政宗と幸村との戦いについては「騎馬鉄砲」のことについても触れられていましたが、やはりこの騎馬鉄砲というのは実態がよくわかりませんね。この当時の伊達家の編成は大部分が鉄砲隊だった、ということは確かなようですが……
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英雄たちの選択「ルールを破れ!戦国ベンチャー~北条早雲 下剋上成功の秘密~」 [戦国時代]

再放送で見ましたが、今回は戦国大名の先駆けとなった北条早雲でした。かつては一回の素浪人から成り上がったと考えられていた早雲ですが、番組では室町幕府で足利義尚の申次衆を勤めていたという説を採用していました。現代で言えば高級官僚です。早雲はエリート街道を歩んでいたのです。若い頃の早雲は建仁寺や大徳寺で善を学んでいますが、この頃寺にあった兵法書も読んで後に守護大名に軍師として仕えることも考えていたのではないかという小和田さんの指摘もありました。


今回の選択は足利茶々丸が異母弟の潤童子と円満院を殺害して伊豆が混乱に陥ったところで伊豆に討ち入るか静観するか?というところでした。今回磯田さんは呉座勇一さんと同じで静観する方を選択しています。堀越公方の背後にある関東管領上杉氏の強大な勢力に対抗し得ないと考えたためです。今川家の兵を借りたとしても、上杉の兵に対抗するにはとても足りないと磯田さんは見ていました。


伊豆に入った早雲は百姓や侍に所領を安堵すると約束し、当時流行っていた病気看護をさせたので皆早雲の善政に感謝しました。早雲は伊豆国内の職人にも土地を与えて優遇しており、在地の勢力をしっかり掌握する早雲の性格が見て取れます。これらの行為は早雲が優しいというよりは合理的な計算で行ったことだと中野さんは見ており、磯田さんも早雲は民に優しい反面、抵抗する者は女子供も含めて皆殺しにするなど残酷な面もあったことを指摘しています。年貢を四公六民と安くして検地を行い村の境界争いをなくすなど早雲の民政には画期的なものがありましたが、それもそのほうが政治が安定するという合理的判断からだったのでしょう。明応の大地震と津波の被害者の救済も早雲が当たったとされていますが、これもすべて計算ずくの行為かもしれません。


早雲はむやみに領国を拡大するよりも、まず在地の勢力をしっかり取り込んで民政を安定させることを優先していることが早雲のその後の行動を見てもわかります。このように内政を充実させたため、北条家はその後100年にわたり存続しました。今後真田丸では秀吉による北条攻めが描かれることになるでしょうが、氏政から見れば秀吉などほんの成り上がりにしか見えなかったでしょう。


早雲の評判は死後まもない頃の人たちからしても決して悪いものではなく、「禄寿応穏」の印判も名ばかりではなかったでしょう。黒田基樹さんの『戦国大名』は北条氏を中心に書かれていますが、これは北条氏の史料が多く残されているからです。つまりそれだけ北条氏が内政に力を入れていた証拠であるとも言えそうです。
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3月3日の英雄たちの選択に平山優さんが出演 [戦国時代]

3月3日の「英雄たちの選択」は「真田昌幸 戦国サバイバル術~大勝負 第一次上田合戦」です。
この回には真田丸の時代考証を担当している平山優さんも出演します。
平山さんは真田関連では「真田三代」「大いなる謎 真田一族」「真田信繁」「天正壬午の乱」などを上梓しており真田に関しては第一人者と言っても過言ではありません。2014年には「長篠合戦と武田勝頼」で話題を呼んだ平山さんが出演します。ぜひ見ましょう。


平山さんの著書としては「真田三代」と「大いなる謎 真田一族」を読んでいますが、この2冊では後者のほうが情報が新しいですが、真田氏の通史としては前者のほうが読みやすいです。後者では山本勘助が実在したことも書かれており、初代真田幸綱についても興味深い情報が多いです。


平山さんの著書はほかには「検証長篠合戦」と「山本勘助」とを読んでいます。「検証長篠合戦」は戦国史好きには興味深い話題の多い本ですがこれはやはり「長篠合戦と武田勝頼」とセットで読んでこその本だと思います。「山本勘助」は甲陽軍艦における山本勘助の姿を紹介したもので、勘助のモデルはイソップ物語だった可能性など、興味深い話題が多いので武田好きにはお勧めです。


真田一族の通史としては、今のところこちらも真田丸の時代考証担当の丸島和洋さんの「真田四代と信繁」が一番のお勧めです。新書の割には内容が濃くてあまり真田氏を知らない人から戦国時代に詳しい人まで、誰が読んでも得るところのある一冊と思います。何より真田家2代目の真田信綱について短いながら1章が割かれているのが類書にはない特徴で、真田信幸についてもきちんと書かれています。


丸島さんには「真田一族と家臣団の全て」もあります。こちらは人物ごとの紹介です。


英雄たちの選択「武田信玄から真田丸へ~城の密集地帯 川中島の秘密~」 [戦国時代]



今回は山城や信玄と謙信の戦略についての話でした。
選択は拠点を築くか謙信と和睦するか、という選択でしたが、和睦を選択した人たちは川中島以前に信長が桶狭間の戦いで義元を破ったのは信玄にとって絶好のチャンスだったと説き、ここで和睦して南進すれば天下も取れたのではないかという意見でした。


一方、拠点を築くという意見では(磯田さんもこの立場でしたが)、謙信が和睦に応じてくれるかどうかわからないし、将来今川や織田を攻めるとしてもまずは北の穀倉地帯を抑えてからのほうが有利なのではないかという意見でした。


結局信玄は海津城を築くわけですが、ここで使われた「丸馬出し」は当時最新の技術で、後に真田信繁が建設した真田丸もこの丸馬出しを改良したものだと千田さんは言っていました。


信玄と謙信の人物については、信玄は徹底したリアリストであるのに対し、謙信は戦争アーティストのようなところのある人で、妻女山に陣取ったのも信玄を誘い出して平地での正面決戦をやってみたかったのではないか?というのが磯田さんの見方でした。これは甲陽軍艦の記述を正しいとしたものですが、小和田哲男さんの意見は啄木鳥戦法などが実際に会ったわけではなく、霧の中での遭遇戦だったのではないかという見方でしたが。


4000人近い戦死者は戦国最大とも言われており、最大の技術を尽くして戦った戦いがごく狭い地域に限られるというところが面白いところだという話でしたが、個人的には謙信と争わずに南進していたらどうなったかは気になるところです。最もこれは後知恵になってしまうのですが。


池田光政が家臣を怒るところで甲州武士を例に出すことや、謙信側の記録では謙信の家臣が信玄に切りつけたことになっているなど、初めて知る内容も多い回でした。それにしても国境地帯に住む住民とは大変ですね。いつ戦争に巻き込まれるかわからず、両方の大名から年貢を取られるというのだから過酷です。戦国時代の殆どの戦争が国境をめぐる争いだったので、生きた心地もしなかったかもしれません。


中島さんは信玄が川中島の戦いに関わっていたのは33歳から40代前半くらいで前頭葉が最も活発化する時期に局地戦に終始していたのはもったいないといったことを話していましたが、そもそもこの時期の信玄に天下に打って出るという考えはあったのでしょうか?信長にも全国統一する意思があったかどうかはわからないとすら言われる昨今なので、このあたりも再考する必要があるのかもしれません。
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平山優『大いなる謎 真田一族』山本勘助は実在した! [戦国時代]

来年はいよいよ真田丸ですが、時代考証を担当している平山優さんの真田本が出ました。内容としては真田幸綱(幸隆)の時代から松代藩初代藩主である真田信之までをカバーしていて、真田幸村(信繁)に関する記述がそんなに多いわけではないのですが、真田一族の発祥から江戸時代に至るまでの流れがよくわかる内容となっています。


サブタイトルに「最新研究で分かった100の真実」とありますが、100個の質問に対して著者が答えるという形式で書かれていて、必ずしも内容は時系列通りではありません。真田一族の興亡について年代順で読むなら同著者の『真田三代』の方が読みやすいかもしれません。


内容的に面白かったところをいくつかピックアップしてみますと、Q12で「幸綱が山本勘介と親しかったのは史実か」とあります。ここでは史料に存在する「山本菅助」は甲陽軍艦に書かれている山本勘助と同一人物だと書かれていて、勘助は信濃のどこかの白に配置されていて対上杉謙信の最前線を担っていたとあります。同じく真田幸綱も対上杉線の最前線をになっており、そのために両者は知り合いであった可能性が高いとしています。


真田幸綱と真田昌幸の活動についてみていくと、両者ともに戦功はあるのですが、どちらかというとこの親子は調略を得意とする武将であったように思います。二人とも調略で城を手に入れる功績が多いのです。昌幸は勝頼が滅びる直前から敵である北条氏との交渉も開始するなど、非常にしたたかな人物でした。このふたりに比べると、信繁は戦い一本槍であまり謀略を得意としているようには見えませんが、謀略を用いる機会がなかっただけかもしれません。


意外なことですが、真田信繁はあまり実践経験が豊富とは言えません。兄である信之はおそらくは対北条戦で初陣を果たし、その後第一次上田合戦でも活躍していますが、信繁は第一次上田合戦の時点では上杉家の人質であり、参加することはできませんでした。若い時期はむしろ信之の活躍の方が目立っていたようです。


大阪城に築かれた真田丸については、信繁だけでなく長宗我部盛親も守備を担当していたとあります。真田の「赤備え」に関しては武田の山県昌景らのものを継承したと考えられており、信玄を恐れていた家康を威圧するためのものである可能性もあると書かれています。


研究者らしく全体として物語性を排して史実に忠実に書く事に努めており、派手さはないかもしれませんが実際の真田家がどのようなものであったかを知る入門書としては最適ではないかと思います。信繁に関しては平山さんの『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』が出ていますので、こちらも読んでみたいと思います。

映画『のぼうの城』と騎馬鉄砲 [戦国時代]


事前の評判からなんとなく漫画っぽい映画になっているのかなと思っていましたが、成宮さんの演技など現代的すぎるような点はあるもののちゃんと時代劇としては成り立っているように思いました。個人的に面白かったのが、正木丹波率いる忍城軍が「騎馬鉄砲」を使っていることです。騎馬鉄砲といえば伊達政宗が大坂の陣で使ったと言われていますが不明な点が多く、実際に使い物になったのかどうかはわからないのですが、映像として見せられるとこういうのもありかな、と思えてきます。


映画の中では石田軍が最初に忍城に攻め寄せた時には鉄砲隊が最初に攻撃を仕掛けているのですが、原作小説でも描写されていたように正木丹波は鉄砲のぎりぎり射程外まで接近して最初の射撃をかわし、鉄砲隊が玉籠めに手間取っている間に騎馬に乗せた鉄砲隊が発砲するという戦術を取っていました。この時代では最初に仕掛けるのは弓ではなく鉄砲だったのですね。戦国時代では時代が下るごとに鉄砲隊の比率が高くなることが知られていますが、秀吉の天下統一の末期には鉄砲の装備率が20%近くになった部隊もあるそうです。


ここでも気になるのが長篠合戦での「三段撃ち」です。これがよく言われる三交代制のことを指しているのなら、信長の後継者である秀吉もこの戦法を受け継いでいるはずなので、三成もこの戦法を採用して玉込めによる時間のロスを防いだはずです。ですが映画の中では石田鉄砲隊が水田の泥に足を取られている上に玉込めに時間がかかっている間に忍城軍に攻撃されているので、三交代制の射撃という戦術はなかったという解釈なのかもしれません。この時代、鉄砲は強力ですがまだまだ弱点も多い武器でした。


のぼう様が百姓の心をつかんでいるというのもうまい設定だと思います。おそらく忍城の軍隊は兵農分離などしていないでしょうから、のぼう様が百姓に人望(?)があることがそのまま兵の士気を上げることにつながります。前田吟さん演じる百姓が「我らは元をたどれば皆坂東武者なのだ」という台詞にも現れているように、この時代の農民は戦闘意欲も旺盛でただ田畑を耕すだけの大人しい存在ではありませんでした。


演出という面から見ると、主演の野村萬斎さんはのぼう様というにはちょっと賢く見えすぎ点はありますが、最大の見せ場である船の上での田楽のシーンなどはまさに野村さんでなければできないところなので、この人選は良かったと思います。難を言えば、もっと甲斐姫が活躍するところが見たかったですね。
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2017年大河ドラマは「女城主直虎」に決定。主演は柴咲コウさん [戦国時代]

今年は少し遅いなと思っていましたが、2017年の大河ドラマは「おんな城主直虎」に決定しました。主人公の井伊直虎を演じるのは柴咲コウさんです。来年が真田丸なので2年連続の戦国時代を舞台とした大河ドラマということになります。


篤姫が大ヒットして以来女性主人公の可能性にNHKが目をつけたのか、「江」以降は「八重の桜」「花燃ゆ」と一年おきに女性主人公の大河が続いていますが、今回もその例にならったことになります。


井伊直虎は戦国無双のキャラとしては既に有名ですが、実際どんな人だったのかはあまり知られていないと思います。と言いますか、私もあまり良くは知りません。有名な情報としては、


・戦のたびに当主が殺されたため、生き残った姫が「直虎」と男性名を名乗った
・戦国時代には珍しい女性城主だった
・徳川四天王の一人・井伊直政の養母


といったあたりでしょうか。


井伊直虎を主人公とした小説としては、高殿円さんの『剣と紅』があります。
アマゾンの内容紹介には「井伊直政は家康にむかって話を続ける。それを訊く家康の相づちは実に楽しげだ。
「十五の年、養母は、この男だけは絶対にいけないと強情なまでに言いはり、ついには髪を下ろしてしまいました。当時、今川義元公の庇護の下、繁栄を極めた駿府より、ありとあらゆる贅沢品を用意した縁談相手を前に、養母は一言、こう言い放ったそうです」
──紅はいらぬ。剣をもて。
戦国の世、女地頭と呼ばれた徳川四天王・井伊直政の養母、井伊直虎。彼女の熾烈な一生を描いた、『トッカン』の著者がおくる渾身の歴史エンターテインメント! 」とあります。
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[読書]平山優『山本勘助』 [戦国時代]

風林火山』は今でも好きな大河ドラマの一つです。何が良いと言って、山本勘助が「戦のない平和な世を作る」みたいな現代人に寄せた台詞を一切言わないのです。勘助はあくまで戦国の世で成り上がりたい野心を持つ男として描かれ、市川亀治郎さん演じる信玄や千葉真一さん演じる板垣信方など脇を固めるキャラクターも魅力的で、上杉謙信役のGakctさんも当時大きな話題を呼びました。


さて、『風林火山』の主人公であった山本勘助なのですが、史料では甲陽軍艦の中にしかその名前が見えません。しかもこの甲陽軍艦という史料は春日虎綱(高坂昌信)が書いたということになっていますがその割に間違いが多く、近代歴史学の波に洗われて山本勘助の存在も消されそうになっていました。


この流れが変わったのが「市川文書」の発見です。昭和44年に発見されたこの文書は武田信玄のしたためた書状の中に「山本菅助」の名があることから大騒ぎとなり、これが山本勘助と同一人物ではないかという見方が出てきたのです。そのため甲陽軍艦の再評価も始まり、甲陽軍艦の中に甲斐・信濃の方言があることや、庶民の使う「げれつことば」が使われていることから後世の人間に書けるものではないことが明らかにされています。


では、結局山本勘助は実在したのか?については著者の平山さんは軍艦の登場人物の多くは史料で実在が確認される人物であり、その中において勘助だけが架空の人物であったと考えるのは不自然であるとし、実在していた可能性は十分にあると指摘しています。市川文書の山本菅助と山本勘助が同一人物だと証明されていないため実在していたと確定することはできないものの、完全に否定できる存在でもないというわけです。


現状がこうである以上、山本勘助という人物を探るには、まずは勘助の登場する唯一の史料である甲陽軍艦と真摯に向き合うことから始めなくてはなりません。平山さんは甲陽軍艦のみに依拠して、軍艦の中に勘助がどう描かれているのかを追っていきます。意外なことですが、軍艦に書かれている勘助は「軍師」ではありません。そもそも軍師という職制自体が戦国時代には存在しなかったので、軍師になりようがないのです。勘助が軍法に精通していたことから、後世にそういうイメージが定着していったようです。


勘助の最期にしても、よく「啄木鳥戦法が失敗したため責任を取って出陣し戦死した」などと言われるのですがこれも後世の創作で、軍艦にはあくまで戦死したと書かれてあるだけなのです。第四次川中島の戦いは信玄の弟・信繁も戦死するほどの激戦だったので勘助も巻き込まれただけかもしれません。この戦いでは信玄の本陣にいた真田昌幸の同僚も戦死するほどの戦いだったからです。


甲陽軍艦の中で勘助が語っている各国の気風も面白く、東国では意地のある者が10人中9人はいるが、西国ではそんな者は20人に1人くらいしかいないと語っています。歴史小説などでよく武田など東国の兵は強いが西国の兵は弱いという描写を見かけますが、このあたりも根拠になっているのかもしれません。


この本を書くにあたって、平山さんは勘助のような怪しい人物をテーマにするのはやめるように研究者仲間に言われたそうです。ですが、勘助に関しては怪しい伝説や後世の創作も含めた内容の書籍が多く出回っているのが現状で、甲陽軍艦のみに依った山本勘助を描く必要があると思うようになったとのことです。おそらく歴史上の人物について出回っている本の多くがそういう部分があるでしょうから、こうした本は貴重です。山本勘助の人物像や信玄との関係性について知りたい方にはぜひ読んで欲しい本です。
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[読書]佐藤憲一『素顔の伊達政宗 「筆まめ」戦国大名の生き様』 [戦国時代]

戦国大名の手紙は家臣が代筆することが多いものですが、伊達政宗という人は直筆で手紙を書いた人で、膨大な手紙が現代まで残っています。この政宗の手紙を通じて政宗の人物像に迫るのが本書です。


内容としては政宗の残した書簡を通じて政宗の生涯をたどり、また家臣との関係や文化人としての政宗の姿も描写しています。政宗が誕生してから南奥州の覇者となり秀吉の臣下となり、そして仙台藩62万石を築くまで余すところなく書いているので政宗入門書としても使えます。しかも通り一遍な政宗像を描くだけでなく、手紙を通じてかなり深いところまで踏み込んでいます。例えば、政宗の母義姫による政宗暗殺未遂についても独自の見解が示されています。


本書によると、大悲願寺という寺院に政宗の書簡が伝えられており、この寺の住職であった法印秀雄という人物は、実は政宗の弟であったと伝えられているのです。義姫が政宗暗殺に失敗し出奔した後政宗は弟の小次郎を手討ちにしたということになっていますが、秀雄が小次郎であるならば小次郎は生きていたことになります。


政宗はこの暗殺未遂事件後も義姫との手紙のやりとりを行っていて、母に小袖を送るなど仲睦まじい様子が手紙から感じ取ることができます。一時は自分を殺そうとした母親とこのようなやり取りをするのはあまりにも不自然です。著者は小次郎殺害は伊達家の一本化を図るために母と政宗の共謀だったのではないかと推理しています。この事件は小田原で秀吉と謁見するすぐ前のことであったため、政宗が殺されるかもしれなかったので小次郎を密かに逃がしたのかもしれません。


義姫という人は賢い人で、関ヶ原の戦いで伊達氏が上杉氏と対峙している時には敵情を知らせる手紙を前線に送るなど、自ら武将のような活躍をしています。こういう人がいくら小次郎を溺愛していたとはいえ、政宗を殺して家中に混乱を招くとは考えにくいことです。佐藤さんの推理が正しいとは限りませんが、政宗暗殺未遂の真相については今後もなお検討が必要なのではないかと思います。


「文化人としての政宗」の章では、政宗が自筆の手紙にこだわった理由として、それが最高の礼儀だと考えていたからだという見解も示されています。自筆で手紙をかけなかったことを詫びる文書すら存在しているほどなので、よほど自筆にこだわっていたことは間違いありません。コミュニケーションを大切にしていた政宗は豪放な反面、非常に繊細な一面を併せ持った人だったようです。


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[読書]『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』 [戦国時代]

2016年大河ドラマ「真田丸」に備えて何かいい参考文献はないか探しているのですが、まずは武田家の研究者といえばこの方、ということで平山優さんの『真田三代』を買ってみました。平山さんには武田勝頼が滅びたあとの信州をめぐる争いである『天正壬午の乱』を扱った著書もあり、真田氏についての手堅い知見を得たいならまずはここは読まなければいけないのではないかと思いました。


タイトルが『真田三代』なので真田幸村(信繁)の祖父である真田幸綱から解説してあります。一般には「真田幸隆」の名で知られている幸綱ですが、実はこれは出家していた時の名で「こうりゅう」と読むのだそうで、戦国武将としての名は幸綱となります。この幸綱が信玄に使えて村上義清の調略などで活躍した後、幸綱の次男である昌幸も信玄に仕えるようになります。甲陽軍艦によると昌幸の初陣は最も激戦だった第4次川中島の戦いで、奥近習として信玄の本陣を守っていたそうです。昌幸の活躍は伝えられていませんが、本陣を守って戦死した同僚もいるので昌幸も危ない場面があったかもしれません。


信玄の側近として信玄の兵法を体得したであろう昌幸は優秀な武将に成長し、三増峠の戦いで馬場信春の部隊に派遣され一番槍の功績を挙げたこともあります。武田家が無事ならば重臣に納まっていたはずの昌幸ですが、勝頼が滅びたことで戦国大名として自立することになります。武田家が滅亡して権力の空白地帯となった信州は北条・徳川・上杉ら有力大名の草刈り場となってしまいました。ここで昌幸は北条・上杉・徳川家と従属先を次々と変えながらこの厳しい状況を生き抜き、上田城も築城しました。上田城は上杉軍を目の前に徳川の力を借りて作った城で、極めて危険な状況で建設されました。


この「天正壬午の乱」の経緯は複雑なので省略しますが、昌幸は調略や外交の力を存分に発揮してうまく立ち回っています。歴史家の磯田道史さんが伊達政宗のことを「高級幕の内弁当」と評したことがあり、これは戦争や政治・外交など多くの能力が政宗という一個人の中に宿っているという意味ですが、真田昌幸もまさにこういう人物でした。惜しいのは昌幸は政宗のように最初から大名ではなかったことです。弱小勢力であったためにこすっ辛い立ち回りを迫られ秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれた昌幸ですが、弱小勢力が信義など守っていたら滅びてしまうだけです。真田幸村の働きは有名ですが、武田家滅亡後の昌幸の動きについてはあまり知られていないので、この部分を知るだけでも価値のある一冊ではないかと思います。


この昌幸の息子が幸村というわけですが、これは俗称で当時の名前は信繁です。第二次上田城の戦いでは父昌之とともに戦った信繁ですが、信繁が昌幸の兵法を受け継いでいるとするなら、昌幸は信玄の戦い方を実地で学んでいるので信繁は武田の兵法の正当な後継者ということになるでしょうか。その信繁が大坂の陣で家康を大いに苦しめるのですから、家康は三方ヶ原以来最後まで武田に苦しめられたということです。


平山さんは「真田丸」の時代考証を担当されるそうなので、近いうちに真田氏関連の著書が何か上梓されるかもしれません。いずれにせよ、真田氏に関する手堅い入門書として書としてお勧めです。


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