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英雄たちの選択「すべては民のために!“名君”徳川宗春の挑戦」 [英雄たちの選択]

今日は尾張藩の殿様・徳川宗春の話でした。この人については『逆説の日本史』で初めて読んだのですが、世界史を何歩も先を行く先進的な人物であったと冒頭で紹介されています。元禄文化の名残が残る江戸で町人とも接して若い日を過ごしたと言いますが、やがて吉宗と接することとなります。吉宗も宗春も生まれついての後継ではないため、広い人物と接して視野が広くなると大石学さんが指摘しています。宗春の若い頃に出していたお触れに、朝鮮の医学書の価格を安くせよというものがり、庶民のことを考えていたことがわかります。


しかし、吉宗と宗春とでは経済政策の点が全く相いれませんでした。吉宗の質素倹約令により景気は停滞してしまいますが、尾張藩主となった宗春の経済政策は正反対で東照宮の祭りの規制緩和を行い、質素倹約例以前の大規模なものに戻しました。藩士の芝居見物も許可し、芝居小屋が増えて新たな繁華街が生まれ商業も活発化し、伊勢の名物なども名古屋で食べられるようになりました。人口は五万人から七万人へと増え、江戸と京に続く大都市になるという道を開いたのです。藩士に歌舞伎見物に行って良いなどというのは破格の待遇で、そういう「悪所」に行ってはならないというのが武士としては普通でした。


法令が多過ぎると人の心は萎縮するというのが宗春の考え方で、これは吉宗とは正反対のものでした。宗春は名君の評判が広まり、吉宗にとっては見過ごせない存在となりました。宗春の政治思想をまとめた「温知政要」には「千金を溶かしたものでも人の命には変えられない」という人命尊重の思想が見られ、人の価値観は多様で、どれが優れているわけではないという近代の自由主義に近い思想もすでに持っていました。これはヨーロッパの啓蒙思想より半世紀も早いもので、宗春は日本最初の啓蒙君主とも言われます。


こうして名君との評判が立ち始める宗春ですが、江戸での物見遊山を宗春に問いただされます。ここで今回の選択です。今まで通り規制緩和路線を続けるか、吉宗に従い緊縮政策に改めるか?宗春は付家老を通じて中央との関係改善も図っていますが、それでも吉宗に逆らい続けることには不安がありました。


ここでヒントになるのが享保一八年の江戸での打ち壊しです。吉宗の緊縮政策は破綻に近づいていたのです。これを考えるとやはり独自路線を続けたほうがいいように思えてきます。飯田さんも吉宗に従う路線を選びましたが、従うふりをして実はあまり従わないようにすればいいと言っていたので実質的に独自路線と同じでしょう。心情的にはこれは誰もが宗春を支持したくなりそうです。


結局、吉宗の詰問に対して反論し、独自路線を継続することにしました。そして宗春は領内で大規模な巻狩りを計画します。これは軍事演習のためと思われますが、実は巻狩りをすることで経済を活発化させる目的があったようです。しかしこれは外からは将軍家との騒乱を計画しているように見えてしまうので中止されてしまいました。


良いことずくめに見える宗春の経済政策にも弱点はあります。関東以東ではこのような都市経済が成立するかどうかは難しいと飯田さんは指摘し、東北ですと全人口を食糧生産につぎ込んでもまだ足りないくらいの状態でした。吉宗は民を飢えさせてはならない責任があるので、全国を治める吉宗としては宗春モデルを良しとするわけには行かなかったのかもしれません。


結局、宗春が参勤交代で江戸へ行っている間に重臣が宗春の規制緩和策をすべて廃止してしまいました。クーデターが起きたのです。宗春は謹慎を申し付けられ、69歳でその生涯を閉じました。宗春は死後も許されず尾張藩でも宗春の記録はほぼすべて抹消されましたが、庶民は宗春の世について語り継いでいます。民を慈しむ宗春の政治姿勢は尾張の末端にまで伝わっていました。


もし宗春の政治がもっと続き、商業に課税する方法を思いついていたら幕藩体制はもっと早く終わっていただろうと飯田さんは指摘していましたが、宗春の政策はそれくらいの先進的なものでした。生まれる時代が早すぎたと思える程の人で、今回はこの番組史上一、二を争うくらい面白い回だったのではないかと思います。
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英雄たちの選択「富士山大噴火 現場指揮官・復興への葛藤」 [英雄たちの選択]

今回は江戸時代の災害と復興の話でした。
すでに大地震と津波に苦しめられていた小田原藩に対して富士山の噴火という追い打ちでしたが、火山灰は地元では2mも詰もるというひどい有様でした。この当時の状況について、日本人は記録魔なので庶民もよく記録を残していたと磯田さんは言っています。


そして、当時の幕府が被災者に言い渡したのは自力で復興せよということでした。幕府から何らかの支援策が打ち出されると思っていた農民の落胆は深かったことでしょう。幕府も何もしなかったわけではなく、初めての試みとして全国から現在の震災復興税のようなものを集めていたのですが、問題はこれを集めた荻原重秀です。荻原はマクロ経済家としては非常に優秀な人物で、現代でいう管理通貨制のようなものを考えていたのですが、こういう人はあまりミクロまで頭が回りません。せっかく集めた資金も3割程度しか村の復興のためには使われなかったのです。


代官として現場に派遣された伊奈忠順は農民に懇願されて村の様子を見て回り、廃村の危機に瀕している様子を目撃します。最初は伊奈忠順も自力で対応せよと説いていたのですが、飢餓に悩まされる村の様子を見て支援策を打ち出すことを決意し、農民を直接荻原重秀に面会させて窮状を訴えさせることまでしています。


福田千鶴さんによると、江戸時代の社会では百姓はずっと生まれた土地で生きるものと考えられており、それが幕府の基本政策であったといいます。百姓が土地を離れると、どこかの屋敷に奉公して暮らしていくしかありませんが、そうなると本百姓ではなくなるので下駄を履いてはいけないとか傘をさしてはいけないとか、人権すらないような状況に置かれることになります。生まれた村を離れるとはそれほど辛いことなのです。結局伊奈忠順が見捨てなかったために村は復興するのですが、その後伊奈忠順は駿府の米倉を独断で開いて百姓に分け与えたために切腹することになったという説もあります。


もし現在、富士山が噴火するような事態となると空港や高速道路が使えなくなり、灰によって精密機械が使えなくなるなど経済が根本的に麻痺してしまうことになりかねません。江戸時代よりもひどい被害が出る可能性もあります。伊奈忠順の対応がそのまま役立つということはないでしょうが、このようなこともまた知っておくべき史実の一つであるように思います。
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英雄たちの選択「真田昌幸 戦国サバイバル術~大勝負 第一次上田合戦」 [英雄たちの選択]

今日は第一次上田合戦の回でした。
真田昌幸は上杉→北条→徳川と属する勢力を次々と変えた後、最後には家康から沼田・吾妻の領地の引渡しを求められていましたが、これに昌幸は応じたくありません。この時点で何を選択するかが問題となりました。


この時点での選択は上杉家につくか、徳川について領地を引き渡すか、の二択です。これに関して中野信子さんと島田久仁彦さんは上杉につくという選択をしていました。島田さんは上杉について実質的には秀吉につくというオプションを取れば、豊臣家には譜代の家臣が少ないので大名になるチャンスがあっただろうと説いています。


一方、磯田道史さんと平山優さんは徳川につくという判断でした。磯田さんは兵力から考えて真田側に勝ち目はないと言い、平山さんはこの時点で上杉家は新発田重家の反乱と戦っており、さらに佐々成政にも対処しなければいけないという状況で、上杉についても援軍が来るかわからず、しかも一度上杉毛から離れているので受け入れてくれるかもわからない、と説明していました。


結局、家康が室賀正武を使って昌幸の暗殺を図ったこともあって昌幸は上杉家につくのですが、第一次上田合戦の勝因について平山さんは真田側には地の利があったこと、生き残るために必死で戦ったため士気が高かったこと、徳川方は絶対的な大将がいなかったため和が乱れやすかったことなどを解きました。磯田さんは昌幸は信玄の参謀として働いていた昌幸の有能さや徳川を上回る情報網を持っていたということを解き、「三方ヶ原で一度徳川を破っているのだから今回だって勝てる」と演説したのではないかと言っています。徳川方には旧武田武士もたくさんいて、誰がどう攻めて来るかをあらかじめ知っていたのではないかという説明もしていました。


結果はご存知のとおり真田の大勝利に終わり、徳川方は1300名ほどの損害を出す結果となりました。徳川方では石川数正の出奔という大事件が起こり、戦争の継続どころではなくなってしまい真田家は領土を保つことになりました。


さて、もし真田家が徳川についていたらどうなったのか?について、磯田さんは真田が徳川の味方なら秀忠軍の行軍を邪魔する勢力は存在せず、真田が徳川の先鋒となって戦うので関ヶ原の戦いはとても楽なものになっただろうと言います。平山さんはその場合真田家はあまり有名になることもなく、今ほど名を残すこともなかったのではないかと言っていました。確かにこの選択をした場合、信繁はせいぜい徳川家の一武将として多少の活躍をした程度で、歴史ファンが名前を知っている程度の人物となっていたでしょう。


今回特に印象に残っているのは、平山さんの「昌幸が次々と所属する勢力を変えているのが裏切りに見えるのは大国の論理であって、国衆からすれば自分を守ってくれない勢力から離れるのは当たり前の行動に過ぎない」という言葉です。これは小山田信茂や穴山梅雪の行動にも当てはまることです。彼らも昌幸も、あくまでその時点で最善と信じた行動をとったに過ぎません。昌幸の行動を見ていくことでこうした国衆の生き様がよくわかる、という点が真田家の歴史の面白いところです。
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激突!島原の乱 天草四郎vs松平信綱 [英雄たちの選択]

去年から何度か放送されている内容ですが、確認のため内容をメモ。


松平信綱の選択は天草四郎と和睦するか徹底的に鎮圧するかという2拓でした。和睦を選んだ人たちは、欄の主要な勢力は百姓なので、ここで鎮圧してしまうと住民がいなくなってしまうのでそれはまずいという意見でした。一方、鎮圧を主張した人たちは(磯田さんもそうですが)ここで妥協してしまったら百姓は一気を起こしても処罰されないと考え一気を起こし放題になってしまう、それでは徳川の秩序を保つことができない、というものでした。


萱野さんが「宗教が怖いのは、来世まで保証できること」と言っていました。政治は現世の約束は出来ても来世までは影響しません。中島さんは「天草四郎は勝った」と言っていましたが、信仰に殉ずることは四郎としては負けではないのかもしれません。来世で天国に行ければいいのですから。


磯田さんは幕府は長崎に大量の隠れキリシタンが存在していたことを知っており、そういう人達を「宗門心得違いの者」という曖昧な言い方で読んでいました。これは官僚答弁のようなごまかしで、こういう言い方でもって隠れキリシタンを黙認していたのです。これ以上徹底的にキリシタンを弾圧することは不可能だと考えたのでしょう。


この乱の後、幕府は一揆勢に向けて鉄砲の水平射撃はできなくなりました。その後許可があってようやく水平発射できるようになったということで、それだけ民衆を敵に回すことの恐ろしさを見せつけたのが天草の乱だったのだと思います。


番組の中で、鉄砲の鉛玉を溶かして十字架にしたものが出土していたのが印象的でした。おそらく信者たちはまともな十字架などは持っていなかったのでしょう。


さて、次回1月7日はいよいよ川中島の戦いです。「信玄の築城術は、大坂の陣での真田丸にも影響を与えている」と番組サイトに書かれていますが、最大の激戦となった第4次川中島の戦いは真田昌幸の初陣だったと伝えられています。次回の番組内容にも期待しています。
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英雄たちの選択「家康逃げる~天下への道 伊賀越え~」 [英雄たちの選択]

本能寺の変が起こり家康が三河にたどり着くまでどのルートを取るべきか?という選択でしたが、伊賀越えルートと海路ルートで意見は割れたものの、光秀に味方したふりをするという選択をする人は誰もいませんでした。私もこれだけはないかな、と思います。光秀に殺されるかもしれないし、主君を討った光秀に味方してしまうと後で光秀を討つ大義名分が立ちません。


今回は特に新しい情報はありませんでしたが、一番安全なのが回路だと判断する人が多い中で多田容子さんは家康はトップアスリート並みの身体能力があり、脚力も抜群だったので伊賀越えはそれほど困難ではなかったのではないかという判断でした。茶屋四郎次郎の資金力も地元豪族の買収に役立っただろうというのも伊賀越えを選択する理由としてあげられています。


家康が伊賀超えを選択したのは大きな賭けだというのがスタジオでの雰囲気だったのですが、家康なりに情勢を分析して実はこれが一番安全だったという判断はありえないのでしょうか。このあたりはあまり知識がないのですが、いくら最短距離でも海路が最も安全であるならこれを避ける理由が家康にあるとは思えないので、何か私たちが知り得ない情報を家康が掴んでいた可能性はあると思います。


本能寺の変は武田が滅びてわずか3ヵ月後に起きています。同じ年に武田と織田という大勢力が2つも消滅したというのは奇跡としか言いようのないことで、ここから家康の天下取りが始まりました。本能寺の変が起こらなければ武田の領土は全て織田のものとなり家康が付け込む隙はなかったので、家康は恐ろしい程の強運の持ち主だったことになります。真田と家康との因縁もまさにここから始まるので、来年の大河への伏線としても大事な回でした。
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「信長は本当に天下を狙ったのか~新発見・幻の上洛計画」 [英雄たちの選択]

最初の方を少し見ていなかったのですが、見た感じ大体近年の信長研究の内容を反映した内容になっていました。


新史料の発見により、信長は小牧山上にいた時点から京を目指していたということのようで、この時点で既に兵農分離を進めていて城下への家臣の集住も進めていたとのことです。兵農分離が進むことで専業の武士となった兵士はいわばサラリーマンのような存在となり、中世的な自立した農民とは違って主君に養われる存在となるのでそれだけ主君に忠誠を誓わなければならなくなります。信長は兵農分離を達成することで京に常駐できる軍団を作ったのですが、そもそも信長が上洛を目指したのはなぜか?この部分が今日の核心です。


信長はよく「中世の破壊者」であると言われますが、実際には信長はあくまで中世の価値観に忠実な人物だった、というのが今日の結論です。だからこそ義昭を擁立して京の秩序の回復を目指したのです。信長の「天下布武」もあくまで五畿内の秩序を回復するという意味で、全国統一のことではなかったようです。全国の大名に出す手紙に朱印で「天下布武」を押すということは、「天下」の範囲が日本全国ならば喧嘩を売ることにしかなりません。信長はあくまで将軍を中心とした畿内の運営を目指していたのです。中世的な秩序の回復を目指していながら結果的に兵農分離が起こり近世への道が開かれた、というのが面白いところです。


金子拓さんが言っていたように、信長の目指していたところは「天下静謐」というキーワードで語れるようです。信長が細かく義昭に注文をつけていたのも、将軍がしっかりしなければ天下の信頼を失ってしまうという動機からのようで、信長はかなり真面目な人だったのではないかと思います。しかし信長と義昭は結局決裂し、義昭は京から追放されてしまいました。こうなると信長は権威と大義名分を失ってしまいます。その結果四方の大名と対立し、領土を広げていくことになったのではないかというのが金子さんの見方でした。


ここはいろいろな見方のできるところで、信長は最終的には「天下静謐」を超えて全国統一の野心を持っていたのではないかと思います。ただそれは最初からそうだったわけではなく、「天下布武」を唱えていた頃には畿内の秩序回復しか考えていなかったのでしょう。歴史を結果から見ると信長のすることは全て全国統一への布石と見えてしまいますが、人の考えは段階的に変わっていくものだと思います。信長が当主になった時点では畿内の経営すら考えていなかったでしょう。


信長の「兵農分離」についてはまだ証明されていないという論者もいるのでここをもっと知りたいところではありますが、仮に信長が兵農分離を実現したとするならむしろ保守の中から革新的な政策が生まれたことになります。革新的な政策を行うのは本人が革新的な人物だからだ、と考えるのは先入観なのでしょう。信長という人物には多くの先入観が付きまとっているため、まずここをリセットして考えなければ信長の実像に迫ることはできないのだと思います。
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英雄たちの選択 スペシャル「両雄対決!石田三成vs.徳川家康」感想メモ [英雄たちの選択]

再放送でしたが、今見返してみても収穫の多い回でした。


この番組は歴史の専門家でない人の分析が面白いのが特徴だと思っていますが、今回は心理学者の植木理恵さんが外向-内向・安定-不安定という軸を使って石田三成と徳川家康の性格分析をしています。この分析では石田三成が「外向」の特徴を持っているとされ、つまり権威や正論に従う性格であると分析されています。これは「内向」型で自分で決めたルールに従う家康とは対照的です。正論を振りかざす清廉な官僚である三成に対し、利権で人を動かす大物政治家の家康、といった図式です。


さて、この「外向」型の三成が持ち出してくる大義名分が家康にとっては非常に弱点となっていたという見方が番組中で示され、そのために三成はむしろ関ヶ原に至るまでは家康をリードしていたと分析されています。三成は真田昌幸と上杉景勝を西軍に引き込み、佐竹にも調略の手を伸ばしていて家康を包囲しつつありました。これに対し家康は伊達政宗や細川忠興を所領で釣り上げようとし、真田には秀忠軍を送り込みます。先発していた福島正則らも家康が江戸から動かないことに苛立っており、家康が正則を挑発したことで正則は岐阜城に攻めかかっています。


笠谷和比古さんは内府ちかひの条々が出されたのは小山評定の後だという見方で、このため大義名分を奪われた家康は相当焦っていたといっています。福島らが岐阜城を攻め落としたことも必ずしもプラスではなく、むしろこのまま進軍して三成を討ってしまえば家康の立場がなくなるとも説明していました。対する三成は松尾山に毛利輝元を迎え入れる準備を整えており、長期戦の構えを取っていました。


この時点においても、まだ追い詰めているのは三成だと加来耕三さんは言っています。輝元が出馬し、さらには三成が秀頼を出してきたら福島ら豊臣恩顧の武将は対抗することができません。大義名分を持たない家康が味方につけるべきは時間で、できるだけ野戦に持ち込みたかったのです。対して三成方は大垣城に篭城するほうが有利なはずで、篭城していいれば歴史は変わっていただろうと加來さんは説明しています。


では、なぜ三成は大垣城を出てきたのか?番組では小早川秀秋が西軍を蹴散らして松尾山に陣取ったことに原因を見ています。これが家康に対して味方するというメッセージになったというのが桐野作人さんの解釈で、この秀秋を監視するために三成が笹尾山に陣取ったというのです。この秀秋ですが、植木さんには「内向-不安定」型の「エキセントリック」な性格と分析され、権威に弱い性格とされています。家康に砲撃されて西軍に襲いかかったのもそのせいなのでしょうか。


桐野さんは秀秋は豊臣政権下で冷遇されていたので、三成の提示した関白職はかなり魅力的だっただろうと言っています。大河ドラマ『天地人』では関白になった豊臣秀次の悲惨な最期を秀秋が思い出し、三成を恐れて東軍に寝返ったという描写になっていました。このあと秀秋が西軍だった場合のシミュレーションも行われ、その場合は後日再戦となって駆けつけた秀忠軍も加わるので結局東軍が勝つという結果になっていましたが、どっちにしても東軍が勝つのなら秀秋の存在意義はなんだったのかと萱野稔人さんが苦笑する場面もありました。


番組を見ていて、正直加来さんは三成を少し過大評価しているのではないだろうかとも思ったのですが、この戦いの帰趨はかなりぎりぎりのところにあったのは間違いないだろうと思います。それにしても三成派の人というのは思い入れが強いのですね。いつもたくさんしゃべっている印象のある宮崎哲弥さんが今回はあまり喋っていなかったのも三成派の熱気に押されたんでしょうか。
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英雄たちの選択スペシャル 両雄激突!会津vs長州 [英雄たちの選択]

今回は1時間半スペシャルでしたが、非常に見所の多い回でした。会津とい長州の藩の成り立ちから江戸中期の藩再興を経て、幕末の両藩の衝突に至るまで長い射程で追っていく内容でしたが、会津と長州は同じ日本でも藩風というか藩のDNAとでも言うべきものが全く異なっていて、両藩の幕末の運命は江戸初期からすでに決まっていたかのような印象を受けました。


毛利家は毛利輝元の代に関ヶ原で敗北したために大きく領地を削られてしまいますが、藩祖の輝元が戦国の生き残りであったためか、萩城は江戸の城郭としては珍しく山の上に建てられていました。そして重要なのが、財政難に陥ったため輝元の行った大規模なリストラです。武士ではなくなった者達は当然農民となるわけですが、武士は読み書きなど基本的な教養があり、このため長州藩は教育力が高く幕末に至るまで多くの寺子屋が存在していました。


対して会津の藩祖である保科正之は秀忠の子で、徳川に忠誠を尽くす家訓を残しています。これはある意味思考停止を招くような内容で(山本むつみさんはそうではないと言っていましたが)、よく言えば質実剛健な気風を育むものです。江戸中期の藩政改革でも会津藩は教育改革を行い忍耐強い精神を鍛える一方、長州藩では7代藩主毛利重就が撫育方という部署を作り、徹底した検地を行って増えた4万石を元手に米・紙・塩などの産業を育成し、港湾整備などにも力を入れ莫大な資金を手に入れていました。ここで手に入れた資金は特別会計に回され、幕末に外国から武器を調達するのに使っています。忠義一徹の会津に対して合理的な長州、という違いがあります。


磯田さんは会津を一言で表すと「忠」だと言っていました。実際に会津は最後まで幕府に忠節を誓い、西郷頼母の反対を押し切って京都守護職を引き受け最後には朝敵となってしまいます。どこまでも正直なため立ち回りが下手で、幕府に向けられた憎しみを全て引き受けてしまった会津の悲劇は2000発の銃弾を打ち込まれた会津若松城の写真にはっきりと表れています。


会津のDNAは士道としては非常に立派なものなのですが、「目上の者に逆らってはならない」など合理性には欠けるものがあり、この点が合理的な長州にはどうしても及ばなかった印象があります。会津は徳川250年の支配に最後の花を添えたという感じでしょうか。吉田松陰が剣術を習おうとした時、剣の師匠がお前は剣術には向いていないから学問に集中したほうがいいと言ったという話を聞いたことがありますが、こうした合理性は会津にはないものです。藩の成り立ちから関ヶ原の負け組であり、倒幕に強いモチベーションを持つ長州と藩屏としての強い自覚を持つ会津は正反対の存在であり、この二藩が幕末の政治の流れを決定づけたのも歴史の必然ではないかと思いました。
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英雄たちの選択「毛利一族の関が原 歴史を変えた選択の連続」 [英雄たちの選択]

導入部では「凡庸な三代目」の印象のある毛利輝元像を覆すような感じになっていましたが、番組終了後も結局その印象が大きく変わることはない、という内容でした。関ヶ原の西軍の大将であるにも関わらず奇妙なまでに印象の薄い輝元なのですが、結局今だに輝元がしたかったことは何なのか、が今ひとつ私にはわからないままでした。


毛利輝元は偉大すぎる祖父・元就と小早川隆景・吉川元春に頭を押さえつけられながら成長し、秀吉の死後ようやく自由に動ける立場になったわけですが、こういう生い立ちの人はあまり自分の意思を強く出せないことがあると香山リカさんは語っていて、磯田さんも元就は酒の飲み方まで細かく指導していて典型的な「過干渉」だった、と語っていました。こうした生い立ちが輝元の関ヶ原前後の煮え切らない動きにも、あるいは影響しているのかもしれません。


関ヶ原において毛利軍が布陣していたのは家康軍の背後にある南宮山でしたが、家康は本陣を築く前に毛利軍の眼前を横断しています。この時家康軍はかなり細い隊列になっていて、家康の医師があんなに近くに毛利軍がいるのに大丈夫なのかと兵士が不安を漏らしていたと磯田さんは言っていました。なぜこんな危ない所に家康が陣取ったのかも結局わからないままですが、吉川広家と家康が起請文を交わしていることがひとつの安心材料とはなるとしても、裏切られればそれまでです。


磯田さんは、毛利軍の眼前を家康軍が横切った時だけ天下の扉が毛利の前に開いたのだ、と言っています。そのチャンスを掴み取れるものだけが英雄になれるのだということでしたが、結局輝元にはそれだけの器量はなかったということなのでしょう。仮に毛利が家康に襲いかかり結果として天下を手中にすることができたとしても、輝元の能力では家康のように天下を盤石なものとすることができないような気がします。領国を大きく減らしてしまったことは失敗には違いありませんが、輝元の能力からすると大きな賭けに出るよりもこのあたりが分相応な結果なのかもしれません。


輝元が結局戦わなかった(戦えなかった?)理由は分かりませんが、私も凡庸な人間の一人としてはここで動けない理由がなんとなくわかる気がします。おそらく輝元は家康には敵わないことを自覚していたはずで、凡人はたとえチャンスがあっても「格上」の相手には怯んでしまうものなのです。家康も輝元の器量を見抜いていたからこそ毛利軍の眼前を横切ることができたのでしょうし、毛利軍を背後に置きながら戦うことができたのでしょう。輝元は一般に思われているより野心家だったと番組中では説明されていましたが、所詮家康とでは役者が違いすぎるという印象が強化されました。


この大事なところで動けなかった輝元に比べれば、本能寺に信長を討つことができた光秀は輝元よりはるかに英雄と呼ばれる資格があったことになりますが、光秀の選択が最上のものだったのか?はわかりません。結果から考えるなら、輝元のようにチャンスを目の前にして動けない方が生きながらえていたかもしれません。それはそれで後悔の残る人生だったでしょうが、どういう選択をすれば正解なのか、そもそも正解など存在するのか、は歴史を知れば知るほど簡単には言えなくなるものだと思います。
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